ジャーナリズムの公益性も現実も無視した橋下徹の暴論
彼らはつまり、安田氏がジャーナリストとして何も得られなかった、何の情報も成果もあげられなかった、しかもそれは単なる仕事=商売であり、金儲けじゃないかと言いたいらしい。その上、情報は海外メディアから買えだの、大手メディアが雇えだの──。
これらの意見は、ジャーナリズムに対する無知、そして報道の公益性をまったく無視したものとしか言えない代物だ。そもそも、彼らは何をもって“取材の成果”などと言っているのか。現時点で安田氏の取材に成果がないなどと、なぜ言えるのか。
たとえば、安田氏は3年4カ月の間、内戦状態にあるシリアの武装組織に拘束されていた。その間、どんなことが起き、どんな体験をして、何を見聞きしたのか。それだけでも十二分に価値のある情報だ。さらに今回の拘束と解放で、これまで無関心だった日本の多くの人たちがシリアの現状に目を向けたという意味もある。海外メディアもこれを伝えたことで世界の人々にもそれを知らしめるなど世界にとっても貴重なものだ。また、それ以前にも、安田氏はシリアやイラクなどの紛争や、そこに暮らす市民や子どもたちの悲惨な実情を伝えてきた。
いや、それ以前に、橋下氏は報道がまるで“商品”のように言っているが、ジャーナリズムは表に出ている成果だけで単純に測れるようなものでは決してない。そもそも、1度の取材でなんらかの成果が出るなんてことは、ジャーナリズムの世界では滅多にあるものではない。無数の取材の空振りや失敗、ときには誤報もあり得るだろう。そうした無数の試行錯誤の果てに、はじめて成果が見えてくることもあれば、それでも、たどり着かないことだってあるのだ。99%の無駄な取材の繰り返し。それが報道でありジャーナリズムの仕事であり、目に見える成果がなかったら大失敗などと決して言えるものではない。
橋下氏はさらに “他の世界のメディアが報じていないこと”、つまり国家機密レベルの大スクープだけがあたかも商品価値のある情報などと思っているようだが、これもまた無知蒙昧としか言えないものだ。紛争地で多くの市民や子どもたちが平穏な日常を破壊され、銃弾が飛び交う社会に放り出され、そして虐殺される。そのなかでどんな生活をしているのか。安田氏はこうしたことを伝えようとしてきたが、しかし橋下氏にとっては、これもニュースとして価値を認めていないということだろう。
また、情報は海外メディアから買えばいいというもの言いもしかり、だ。そもそも国によって取材対象との関係性は異なる上、それによって自ずと国際情勢の見方も、収集する情報も視点も違ってくる。たとえば橋下氏が言うBBCやCNNならイギリスやアメリカ“史観”が濃厚になるだろうし、中国情勢を新華社通信だけに頼っていたらどうなるのか。
逆に言えば、報道が多様であればそれだけ見えてくるものも多くなる。しかし、橋下氏はそうしたジャーナリズムの特性、または国やメディアによって視点が異なることすら理解できないらしい。
これについて、木村太郎氏は10月30日付けの東京新聞の連載コラムで、 1973年にオイルショックに起こったとき、中東情勢を詳しく伝えていなかったことから「マスコミは何をしていたのか」との声があがったこと、そして1974年の第5次中東戦争勃発危機の際、レバノンに駐在していた経験を回想し、こう記している。
〈その危険はいきなりやって来ない。内戦の犠牲になる国民の痛みと、その痛みが怒りに変わり爆発してゆくのだが、その実態は現地での最初に痛みから実感してないとわからないことも知った。
ここまで書くともうお分かりだろう。シリアの内戦を取材中に武装集団に三年余も拘束されていた安田純平さんは、その痛みを取材していたのだ。
〈外電を引用して解説するのはたやすいが、現地の住民の痛みを伝えないと四十五年前のように事態の展開を見誤ることにもなりかねない。〉