イラクPKO日報隠蔽は稲田防衛相の「日報はない」答弁が引き起こした
だが、稲田氏の発言の根拠は一部の部署だけを対象とした限定的な調査で、とても「確認した」などと断言できるものではなかった。また、稲田氏はこの答弁の2日後、再探索を命じたなどといっているが、それもたんに当時の統幕総括官に口頭で「本当にないのか」などと質しただけで、本格調査を指示するものでなかったころが判明している。
しかし、翌3月になると、陸自内で南スーダンPKOの日報が見つかって、国会で厳しく追及を受け始めたため、しかたがなく、防衛大臣直轄の特別防衛監察を実施。すると、陸自研究本部教訓課(現在は教育訓練研究本部教訓評価室)でイラク日報が発見されてしまったのだ。
ところが、その結果は稲田氏らには報告されず、この3月31日に小野寺防衛相に報告されるまで1年間にわたって、隠蔽されづつけた。
報道では陸自研究本部が「調査対象ではないと判断してしまったため」などとされているが、特別防衛監察は防衛大臣直轄のはず、大臣に報告されないということなどありうるのか。
また、本当に報告されていなかったとしても、それは明らかに政権への「忖度」だろう。当時は、前述したように南スーダンPKOの日報隠蔽が大きな問題になり、国会ではPKO参加5原則に抵触する「戦闘」との記述を隠すためだという追及を受けていた。イラクの日報にも「戦闘」の文言があった可能性が高く、安倍政権としては問題の拡大を防ぐためにも、「イラク日報」は出てきたら絶対に困る存在だった。
だから、当時の稲田防衛相はたいした調査もしていない段階で「文書は残っていないと確認した」などと答弁したのであり、再探索もアリバイ的に口頭で指示しただけにとどまったのだ。
そして、こうした稲田氏の姿勢、答弁に、防衛省と自衛隊は敏感に反応したはずだ。稲田氏の真意がわかっていたからこそ、防衛省と自衛隊は本気で探索しようとせず、日報が見つかったあとも、文書をネグり、そのまま隠蔽してしまったのである。