「主権回復の日」に「沖縄の主権はまだ回復されていません」と拒絶感
しかし、その後、天皇の思いは完全に踏みにじられ、安倍政権は沖縄への基地押し付けといじめ政策を始める。これに対して、天皇は強い不快感を示したとされる。
その象徴的な事件が、翌年、政府主催で行われた「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」だった。
1952年4月28日は、前述のサンフランシスコ講和条約の発行日にあたる。第二次安倍政権はこの日を「主権回復の日」とし、政府主催で初めて式典を開いて、天皇・皇后に出席を要請した。式典の開催は、自民党が野党時代から公約にかかげるなど、安倍首相の強いこだわりがあった。
しかし、天皇・皇后は事前段階からこの「主権回復の日」に拒絶感を示していた。毎日新聞の「考・皇室」というシリーズ記事がこう伝えている。
〈陛下は、式典への出席を求める政府側の事前説明に対し、「その当時、沖縄の主権はまだ回復されていません」と指摘されていた〉(毎日新聞16年12月24日付)
つまり、天皇は、沖縄は1972年の本土復帰まで切り捨てられていたという事実を示し、政府に反論していたというのだ。さらに毎日記事は続けて、宮内庁元幹部の証言をこのように伝えている。
〈宮内庁の元幹部は「歴史的な事実を述べただけだが、陛下が政府の説明に指摘を加えることは非常に珍しい」と説明する。憲法で天皇は政治的権能を持たないと規定され、天皇の国事行為は「内閣の助言と承認に基づく」とされる。式典出席などの公的行為も内閣が責任を負う。元幹部は「政府の助言には象徴天皇として従わざるを得ない。国民統合の象徴として沖縄のことを常に案じている陛下にとって、苦渋の思いだった」と打ち明ける。〉
しかし、結局、官邸が押し切るかたちで天皇、皇后は式典に出席させられた。しかも、式典当日、菅義偉官房長官が閉式の辞を述べ、天皇・皇后が退席しようとしたとき、“事件”は起きた。突然、会場の出席者らが両手を挙げて「天皇陛下万歳!」と叫んだ。安倍首相らも壇上でこれに続き、高らかに「天皇陛下万歳」を三唱したのである。
天皇と皇后は、足を止め、会場をちらりと見やり、わずかに会釈してから会場を去った。その顔は険しく、微動だにしないものだった。
昨夏から中日新聞などに掲載されているシリーズ記事「象徴考」によれば、「天皇陛下万歳」の唱和で見送られた天皇は、側近に「不満げな表情」で「私はなぜこの式典に出ることになったのか」と漏らしていたという(中日新聞17年6月21日付)。