川谷絵音は「病的なのは週刊誌でなく世間」と本質を指摘
川谷はまさにベッキーとの不倫を文春でスクープされ、文春砲ブームに火をつけた当事者なのだが、1月19日23時すぎにこんなツイートをしている。
「病的なのは週刊誌でもメディアでもない。紛れも無い世間。」
この発言についても「お前が言うな」「文春と手打ちしたからだろう」などと非難が殺到していたが、川谷の指摘は正しい。「世間」こそが、ベッキーを極悪人のように扱い、CM降板、休養に追い込んだ犯人だ。文春はたんに不倫の事実を報じただけで、休養しろとも、CMや番組を降板しろともいっていない。「世間」がスポンサーやテレビ局に一斉に抗議電話をかけSNSを炎上させ、ベッキーは番組、CM降板、休養に追い込まれたのだ。
しかも、問題なのは、この「世間」の判断があまりに不公平なことだ。ベッキーについてはまるで極悪人のように糾弾していたのに、今回、小室に対しては、同情の声をあげ、逆に「文春」にお門違いの罵倒を浴びせている。
これにはおそらくふたつ理由がある。ひとつめの理由はズバリ小室が男だということだ。「介護に疲れていたんだから別の女性に救いを求めても仕方がない」という同情論は「子育てや介護は女の務め」「男なのに介護をしていたんだから」という前時代的な偏見の裏返しなのである。
もし小室が女性だったら、こんな展開にはなっていないだろう。むしろ、小室に対して、介護をほったらかして、という強い批判の声が上がったはずだ。
事実、子どものいる女性が不倫した場合、必ず「子どもをほったらかしにして」などと叩かれている。
たとえば、シングルマザーで、完全なワンオペ育児なら、現在の小室と似たような状況だと思うが、それでも女性は叩かれる。つい先日、シングルマザーである愛内里菜の不倫疑惑を16日発売の「女性自身」が報じたが、後追いしたテレビでは「子どもを置いて」旅行に行ったということが、とりわけ非難されていた。
不倫どころか、ただの恋愛すら非難される。たとえば、「女性自身」(光文社)が昨年10月に報じた「真木よう子 長女を元夫に連日預けて新恋人と“火遊び愛”!」。小学生の長女を元夫に預けて新恋人と連日デートしていると非難する記事だが、後追いしたテレビでも、「子どもを元夫に預けてまで」男と会っていると非難された。言っておくが、離婚したとはいえ、元夫は子どもの父親であることに代わりなく育児を分担協力するのは当然でおかしなことではない。その間に、女性が何をしようと自由だろう。しかも、当時、真木はコミケ参加問題に端を発する炎上騒動で映画まで降板するなど相当弱っていた時期。子どものいないところでグチを話したり相談したいことだってあったはずだ。
しかし、今回の小室のように「そういう時間も必要」「そういう支えも必要」などの擁護論はほとんどなく、「母親が子どもを預けて…」とバッシングされた。
いや、介護や子育てがからまなくても、男女間の扱いの差はベッキーや矢口真里、斉藤由貴らの不倫に対する論調と、宮迫博之らの不倫に対する論調を比べれば明らかだろう。
こう言うと、ベッキーはウソをついたからだなどと反論する人もいるが、ウソをついていたのは宮迫も、そして今回の小室も同じだ。小室は、文春の取材に対してA子さんと「手をつないだり、腕をくんだことはないです」と語っていたが、実際はA子さんと腕を組んでいる写真が文春に掲載されていた。