行き過ぎたネタバレ忌避の風潮は作品の誤読という悲劇を生む
その一例が、カズオ・イシグロの小説『わたしを離さないで』(早川書房)。これは、人間の臓器移植のために作られたクローン人間を描いた近未来SFなのだが、日本でのプロモーションにあたってそういう紹介のされ方はなかった。ネタバレになると思われていたからだ。
確かに、物語の主人公であり語り手がクローン人間であることは作品冒頭では明かされておらず、読み進めるうちに徐々にそのことがわかってくる構造にはなっているが、それは明らかに『わたしを離さないで』という物語の核心ではない。
にも関わらず、ネタバレ恐怖という風潮のためなのか、主人公たちがクローン人間であるということは、口外禁止のネタバレであるかのようにレビューなどでは触れられず、どころか、その事実に驚くことが物語上最大のポイントであるかのように、流通消費されていった。
ただ、先般から述べている通り、この作品は近未来SFの形をとってはいるが、「実は主人公はクローンだった!」ということに驚くのが主題のエンタテインメント作品ではない。
この作品におけるクローン人間は「いずれ必ず死ぬことが決まっている生を生きる存在」であり、そういった「諦念のなかで生きる」ということを描くのがこの小説の主題だ。「いずれ必ず死ぬことが決まっている生を生きる存在」……そう、これはつまりふつうの人間だって同じなのだ。諦念のなかで生きるということは、老執事を描いた『日の名残り』をはじめカズオ・イシグロが繰り返し描いてきたテーマでもある。
作者のカズオ・イシグロ自身も、出版当初のインタビューで、クローン人間であることは前提で作品について語っているし、書評などで隠す必要もないと語っている。また、2010年にキャリー・マリガン主演で映画化された際は、映画の冒頭でクローン人間であることはあらかじめ明かされている。こういったプロモーションや評論のせいで作品が誤った受け取られ方をしたというのはネタバレ忌避という風潮が生み出した害悪でしかない。
これは『スプリット』で起こっていることと非常によく似ている。この作品が『アンブレイカブル』との連作であるというタネ明かしは、あくまでも最後の最後に出てくるサプライズであって、『スプリット』という作品の根幹ではなく、そのオチを知っていようといまいと十分に楽しめる作品だからだ。
行き過ぎたネタバレ忌避は、我々から映画や小説や漫画について語る機会を奪い、評論の土壌をも枯らせていく。それは作家にとっても、観客にとっても不幸なことである。
(新田 樹)
最終更新:2017.12.04 03:55