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宇多田ヒカルの復帰アルバムを後押ししたのは「自死遺族の会への参加」だった! 母の死を超えた先にあるもの

「詞が一番違うと思います。まわりの制作のスタッフにも、ずっと同じチームでやってるんですけど、すごく言われました。リアリティみたいなものが増したと思います。今までの曲はどこか空想の雰囲気があったと思うんですね。最近いただいた感想のなかで一番嬉しかったのが、「あなたの音楽はより肉体的になった」と。すごく受け入れられた気がして。私が勇気を出して全裸でワーっと行ったからなんですけど、開いて、ちゃんとそれを受け止めてもらえたっていう」

 宇多田は8年半前、活動を休止する際に「人間活動」宣言をしたが、まさに肉体性と強さをもった「人間」として私たちの前に戻ってきた。

 ただ、この肉体性の獲得は、同時にかつての宇多田がもっていたそれこそAC的な「不安定さ」や「儚さ」の魅力との決別でもある。もちろん、人は成長していくものであり、同じところにとどまることはできないが、それがある種の保守化のようなものにつながってはいかないか。そんな懸念が頭をもたげるのだ。

 実際、子供を産み、肉体性とリアリティを獲得した代わりに、保守化してベタになってしまうというのは、これまで多くのアーティストが陥ってきたパターンでもある。

 しかし、今回のアルバムで、宇多田は「子を思う母の心」のようなわかりやすい母性のようなものは一切歌っていない。『Fantôme』の最後の曲「桜流し」には〈あなたが守った街のどこかで今日も響く 健やかな産声を聞けたなら きっと喜ぶでしょう 私たちの続きの足音〉というフレーズもあるが、これは逆に唯一、母が死ぬ前、子供を産む前に作った曲だ。

 むしろ、インタビューで、宇多田は子供を産んだことによって、「自分」の奥底のあるものを発見したことを明かしている。

「自分が親になって子供を見ていておもしろいなと思ったのは、生まれて最初の体験とか、人格のいちばん基礎となるものとか、世界観とか、形成されていくじゃないですか。なのに、その時期のこと自分では、完全に記憶がない。つまり全て無意識の中にある、闇の中にあるみたいな。それをみんな抱えて生きてて、そこからいろんな不安とか悩みとか苦しみが出てくると思うんですよね。なぜ、私はこうなんだ? なんでこんなことをしてしまうんだ? とか。自分が親になって自分の子供見てると、その最初の、自分の空白の2、3年が見えて来るっていう。(略)自分がどこにいるのかふわって見えた瞬間っていう感じが、ずっと苦しんでいた理由みたいな、闇の、わからないっていう苦しみ、何でこうなんだっていう苦しみがふわってなくなった気がして、それこそいろんなものが腑に落ちるというか……。」(NHK『SONGS』糸井重里との対談で)

母の死を乗り越えた宇多田ヒカルが表現しようとしているのは、儚さでもなく、ベタな保守化でもない、わたしたちが気づいていないまったく新しい世界なのかもしれない。
(酒井まど)

最終更新:2017.11.12 02:39

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