“血縁だけが家族ではない”と家族の多様化という価値観を提唱する昭恵夫人の言葉は安倍政権が目論む数々の政策の問題点を指摘したものといっていい。
子どもがいない夫婦もあっていい。家族は多様な形態があっていいし、家族でなくても他人同士も助け合えるはず。昭恵夫人は世間が、いや安倍政権が押しつけようとする価値観を否定し、個の生き方が尊重される社会の重要性を語っているのだ。それは子どもが欲しくても叶わず、周囲からそのことで散々中傷を受けてきた昭恵夫人の“実体験”から生み出されたのだろう。そして、個の生き方や幸福を尊重する考え方の延長線上に、平和や原発に対する想いも出てきているのではないか、そんな気がしてならないのだ。
しかし、ならば、なぜ昭恵夫人は夫の真逆の価値観を許容しサポートしているのか、自らの尊厳を傷つけられるような目に遭いながら、首相と別れずにいるのか。その点については、はっきり言ってわからない。
ただ、少なくとも、安倍首相と昭恵夫人がある種の仮面夫婦状態にあること、そして昭恵夫人がどんな言動をしても、安倍首相にはまったく届いていないことはたしかだ。これはつまり、今回、昭恵夫人を高江に連れて行った三宅氏が考えているような“昭恵夫人を通じて安倍首相に国民の声を届ける”という戦略があまりに楽観的すぎるということでもある。
しかし、マスコミが完全に安倍政権=自民党独裁に支配され、国民の声がほとんど取り上げられなくなっている状況の中で、彼女の利用価値はけっしてゼロではない。昭恵夫人は一応、首相夫人であり、その動きは少なくともニュースになる。今回も昭恵夫人が高江を訪問したことがヤフトピになり、安倍政権が何をやろうとしているかを多くの国民が知る機会にはなった。
あるいは、もし彼女をテントだけでなく、強制排除があった現場に連れていったり、いっしょに座り込みしたりしていれば、さすがに安倍政権もしばらく強行策に出ることはできなかっただろう。
そう考えると、私たちはこれから、昭恵夫人をもっと深く政権批判の現場に巻き込んでいくということを考えてもいいのかもしれない。野党やマスコミが頼りにならない以上、使えるものはなんでも使うという姿勢が必要な気もするのだが、いかがだろう。
(伊勢崎馨)
最終更新:2016.08.07 03:34