この時、沢村は手榴弾の投げ過ぎで肩を痛めてしまったのだ。また同時にピッチングフォームも崩してしまっている。さらには、左の手の平を撃たれ、〈左手の中指が思うように動かない〉状態になってしまう。沢村は右投げなので投手としては致命的なケガではないが、復帰後は、かつてのように速球でバッターを圧倒した姿は見られなくなってしまう。
それでも、サイドスローに転向し、変化球主体の投手に生まれ変わった沢村は1941年のリーグ戦で9勝するなどの好成績をおさめていた。彼が次に召集されたのは、新たなスタイルの投手として生まれ変わりつつあったその年のことであった。
この召集時も沢村は生きて日本の地を踏むことができたが、度重なる軍隊生活で身体と心を痛めつけられ続けた彼の野球選手としての成長は完全に止まってしまい、結局、1943年のリーグではほぼ登板機会もなくなり、〈ほとんど腕だけで投げており、制球もままならない〉という状態になってしまう。結果、0勝3敗という散々な成績に終わり、巨人から解雇、引退へと追い込まれてしまうのだった。
そして、1944年、彼は三度目の召集を受ける。『兵隊になった沢村栄治』では、死の直前の沢村について、このように綴られている。
〈その沢村が三度目の召集を受けたのは、昭和十九年一〇月のことである。
家族に心配をかけさせまいとしたのだろうか、
「おい、行ってくるわ」
というと、いつものように笑顔で家を出た。
車で連隊の営門前まで行くと、沢村は、同行してくれた父に、これまで誰にも言うことのなかった巨人軍からの解雇の話をした。悔しさと悲しさから涙が止まらない。帰ったら、もう一度野球がしたい。そうした願いを受け止めた父は沢村の後ろ姿を見送った。
門司港から沢村を乗せた輸送船が出航したのは、それから間もなくしてからである。すでに制海権は米国が握っていた。輸送船が屋久島の西約一五〇キロのところにすすんだときである。米国の潜水艦に発見されると魚雷を受けた船は成す術もなく沈没した。
生存者はいなかった。〉
享年27歳。もしも沢村が何度も戦地に送られ肩を壊すことなく選手生活を続けられていたら、また、日本がアメリカと戦争さえしなければ、村上雅則や野茂英雄よりも前にメジャーリーグで活躍する選手となっていたかもしれない。
周知の通り、昨年は安保法制が強行採決され、今も「憲法改正」の争点が隠されたまま参院選に突入している。戦争とはどれだけ人々の人生を滅茶苦茶にしてしまうものなのか、彼らが残した教訓を我々は忘れてはならない。
(新田 樹)
最終更新:2016.06.28 04:27