その後、赤嶺のもとには、石丸からのこのような手紙が残されたという。
〈苦しみ以上に野球生活と云う物により楽しみを得ました
是にて亦親兄弟を喜ばす事が出来二十四才としての私には何も悔ゆる所御座居ません
是も皆赤嶺様の御盡力にて得た事と感謝致して居ります
明五月一日夕暮必ず敵艦に命中致します
「忠孝」私の人生は此の二字にて終わります〉
選手たち、そして、日本の野球界を守るため、戦中の日本職業野球連盟はありとあらゆる策をとっていた。ファウルは「だめ」、セーフは「よし」など、敵性語廃止の流れのなかで野球用語が強引に日本語化されていたのは教科書にも出てくる話だが、こういった流れの裏には、〈表面的に遮二無二時世に媚びているようで寧ろお笑い草である〉(「冬の大リーグ」1941年1月5日)とメディアに叩かれながらも、何とかプロ野球を存続させるため、涙を飲んで国の意向に従っていたという背景がある。
野球用語の日本語化の他にも、試合の合間に余興で手榴弾投げ競技を行ったり、慰問や国防献金試合を行ったりと、その策は多岐に渡っていた。しかし、それでも、戦争は着実に野球ができる環境を奪っていく。
日本のプロ野球選手で初めて戦死者が出たのは1937年のこと。名古屋軍の後藤正が犠牲となった。また、なんとか生き延びたものの、大ケガを負い引退せざるを得なくなってしまった選手も多い。
大日本野球倶楽部(現在の読売ジャイアンツ)でキャッチャーを務めていた中山武もそのひとり。彼は戦地で銃弾が右足のくるぶしに当たり負傷。その後、球界に復帰するも、走ることすら厳しい状態ではやはり野球選手としてやっていくことは難しく、ほどなくして引退を余儀なくされている。
そして、その中山とバッテリーを組んでいた沢村栄治は戦死した野球選手として最も有名な人物だろう。わずか17歳ながら、1934年の日米野球でベーブ・ルースやルー・ゲーリッグらを抑え「スクール・ボーイ・サワムラ」と呼ばれた彼は、なんと3回も召集されている。
一度目は1938年。この軍隊生活において、豪速球で知られた沢村の強肩で手榴弾を遠投したエピソードは現在でもよく知られているが、かつて日米野球で大活躍した沢村は、戦争に行かされたことで、その華々しい野球人生に大きな影を落とすことになった。