周知の通り、昨年夏には安保法案が十分な議論もなされないまま強行採決され、日本において再び「戦争」というものが現実味をもって考えられるようになってしまった。そんな時勢を見て、歌丸師匠はこのような発言を残している。
「今、日本は色んなことでもめてるじゃないですか。戦争の『せ』の字もしてもらいたくないですよね。あんな思いなんか二度としたくないし、させたくない」
「テレビで戦争が見られる時代ですからね。あれを見て若い方がかっこいいと思ったら、えらいことになる」(朝日新聞デジタル15年10月19日)
彼自身、空襲により横浜の生家が全焼してしまうなど、戦争によって悲しくつらい思いをしたひとりである。その経験も踏まえ、歌丸師匠は続けてこうも語っている。
「人間、人を泣かせることと人を怒らせること、これはすごく簡単ですよ。人を笑わせること、これはいっちばん難しいや」
「人間にとって一番肝心な笑いがないのが、戦争をしている所」(同前)
「戦争には笑いがない」。先ほど少し触れた通り、戦時中に落語家たちは、庶民にその「笑い」を届ける権利を剥奪されてしまったという苦い過去がある。
落語は人間の業を笑うものだ。その噺のなかには、遊郭を舞台にしたもの、また、色恋をめぐっての人々のドタバタ劇といったものも多数含まれる。1940年9月、戦時下において「時局柄にふさわしくない」としてそういった噺が禁じられてしまった。このときに演じるべきではない演目として指定された噺は53種。これは「禁演落語」と呼ばれている。そのなかには、堅物の若旦那が遊び人に吉原へ連れられていく珍道中を描いた人気の演目「明鳥」なども含まれていた。この顛末は、演芸評論家である柏木新による『はなし家たちの戦争─禁演落語と国策落語』(本の泉社)にまとめられている。
「禁演落語」が指定された後、高座にかけることを禁じられた噺たちを弔うため、浅草の本法寺には「はなし塚」という塚がつくられた。わざわざそんなものをつくったのは、当時の芸人たちによる洒落っ気のこもったささやかな反抗であったわけだが、当時の苦い経験を忘れないように、今でも毎年、落語芸術協会による法要が続けられている。
この「禁演落語」の措置は一応、当時の講談落語協会による自主規制の体裁を取っていたが、事実上、国からの強制である。というのも、40年2月には警視庁が興行取締規則を改正。落語家・歌手・俳優など、すべての芸能関係者が「技芸者之証」を携帯するよう義務づけられたからだ。これにより、政府は芸人たちの表現を管理することが容易くなった。