しかし、鵜澤氏はこの戦闘中に装甲車の砲撃を受けてしまう。同書ではそのときのことをこう描いている。
〈僕から3メートルほど離れたところにいたアボマルデイヤは仰向けに倒れている。魚のように丸く大きく見開かれた目を僕に向け続けているが、その目はすでに何も語りかけてはこなかった。アボマルデイヤとともに集められていた2〜3人の負傷者たちも、折り重なって倒れてピクリとも動かない。彼らも完全に息を引き取ったようだ。
たかだか1発の砲弾ではあったが、僕らを殺し尽くすことはそれほど難しいことではなかった。政府軍は相手が対抗手段を持たない生身の人間であろうがなかろうが、手加減などしてくれない。いや、これは政府軍に限らないだろう。戦争とは、正義とか悪とか、ヒューマニズムとか愛国心といった気持ちをどれほど持っているかでなく、「結果」がすべてなのだ。「力のある者が生き、力のない者は死ぬ」。実にシンプルな法則だ。そして僕もその法則に従って、最後の時を迎えようとしていた。
〈終わった。何もかもが終わった……〉〉
鵜澤氏は右足に致命傷になりそうなほどの重症を負ったものの、仲間に救出され、野戦病院での手術に成功。リハビリのなかで、「昼夜を問わずイスラム教漬けになった生活」に嫌気がさし、部隊を抜けトルコへ。そして、イスタンブールで目の異常を覚えて医者へ行くと、失明の危険性を告げられ、日本で手術を受けたほうがいいと言われたのだという。
鵜澤氏は悩み抜いたあげく、シリアに再び入り、仲間への挨拶を済ますと、トルコから飛行機で日本へ帰国した。
こうして一命をとりとめ、今は日本で暮らしている鵜沢氏だが、しかし、なぜ彼は戦地へ向かい「イスラム戦士」になろうと思ったのか。同書で鵜澤氏は、小学校時代まで遡ってその“思い”の経緯を語っている。
引っ込み思案だった鵜澤氏は、小学生のころ、ワキガが原因でクラスからいじめられ、不登校になったという。そのうち両親をも憎むようになり、自傷行為に走ったという。そんなある日、テレビで映画『プライベート・ライアン』を見て、「戦場の圧倒的な『死』と『破壊力』」に惹かれたという。
〈この戦場に身を投じれば、自責の念に駆られて煮詰まっている今の自分や、答えをだせずにいる無力で憎たらしい自分を「ぶっ壊す」ことができるかもしれない……。そして、それによって新たな境地も見出せるのではいか……〉
それからというもの、戦場へ行くために海外を目指していた。中学卒業後、陸上自衛隊少年工科学校(現・陸上自衛隊高等工科学校)へ入る。鵜沢氏にとって何より魅力的だったのは「射撃や行軍など自衛官として基礎的な訓練も行われる」ことであり、自衛官の「あのカッコいい制服」にも憧れていたと記している。