〈これまでほとんど語ることはありませんでしたが、わたしには長男・ユキと長女・サユという2人の子どものほかに、もう一人子どもがいました。
長男・ユキを出産した、その2年半後に次男を死産というかたちで亡くしてしまいました。とても辛い思い出です〉
次男を妊娠していた8カ月のときだった。超音波検査を受けたところ、医師から「成長が遅い、体重が増えない」と指摘され、羊水検査では〈18トリソミーという、染色体の異常が偶発的に起こる病気であること〉が発覚した。このとき菊池は〈当時、この病気のお子さんが、外国では15歳まで生きた事例があることを説明され、親子で病気と闘っていく覚悟をしていました〉という。
だが、次男は〈陣痛が始まってすぐに動きを止めてしま〉った。そのときのことを、菊池はこう振り返る。
〈「生きています! 先生触ってください、動いています!」
そう訴えましたが、「それはお母さんの腸の動きです。間違いありません」と静かに諭されました。
母としてしてあげられることは、せめてほかの子どもと同じように産んであげること、それぐらいしかありませんでした。
とてもハンサムな男の子でした〉
だからこそ、再び子を授かり、無事出産できた喜びは大きかった。しかし、そうして生まれた長女は、乳児6カ月診断で脳に異常が見つかる。検査の結果、発見されたのは〈脳梗塞の痕〉。医師の話は「左の運動機能に麻痺が出るでしょう、どこにどう出るかはわからない」というものだった。
ここから親子のリハビリの生活がはじまる。〈日常生活では右手だけで生活できるように小さいころから練習〉し、〈幼稚園を出たあとは、お兄ちゃんと同じ私立の小学校に通い始め〉ることができた。ただ、それでも困難はつづく。
〈娘は、みんなと同じことができない自分がすごく悔しいようで、もともと持っていた負けん気の強さが焦りみたいなものに変わったのか、たびたび学校で過呼吸を起こすようになりました〉
ひどくなる一方の過呼吸。しかし学校の保健室では医療的な処置はできない。長女は円形脱毛症にもなってしまった。このままではいけない……そう考えて転校先を探すが、公立小学校では「健常な子どもと一緒にいることがストレスだとするならば、こちらの学校に来ても同じことを繰り返すのではないですか?」と言われ、特別支援学校でも「ご希望の学年相応の学力の定着は、お約束できません」と言われてしまう。中学で普通校に戻ることや、高校・大学進学を考えるならば、結局“家で家庭教師をつけて勉強する”しか方法がない、というのだ。