宇多田ヒカルと紀里谷和明の出会いは、00年12月、シングル「Can You Keep A Secret?」のジャケット撮影を紀里谷が担当したことがきっかけだった。その作品のプロデュースは、父である照實である。
将来的に夫婦関係になることを見越したわけではないだろうが、とにもかくにも、宇多田ヒカルと紀里谷和明の出会いの場を用意したのは照實であった。
そしてその後、紀里谷はシングル10枚・アルバム3枚のジャケット制作を手がけ、プロモーションビデオも9本撮影、さらに、全国ツアーの演出も担当した。宇多田親子と紀里谷による協働関係は長く続いていくことになる。
しかし、その3人の協働関係と夫婦関係の崩壊は同時にやってくる。06年に行なわれたツアー『UTADA UNITED 2006』の演出をめぐり、紀里谷・照實の間で確執が起きたのだ。結果、直後の07年に離婚にいたるわけで、結局、この結婚で親からの“呪縛”が解き放たれることはなかった。
そして、結婚を通じても親から離れることのできなかった彼女は、ついに、親のために始めた音楽からもいったん身を引くことになる。10年に発表した「『人間活動』に専念」することによる休業宣言である。
〈そうっすねぇ……あんまり生きてる感じがしないんです〉
〈『何かをしたい!』とか、『何かを成し遂げたい!』とか、『遊びに行きたい!』とか、『これ食べたい!』とか、『おしゃれしたい!』とか、あんまないんですよ〉
〈元々積極的じゃないんですよ、人生に対して。『こうなって欲しい!』とか思わないから。『こうなって欲しい!』と思ってると、思い通りに行かない時に辛いじゃないですか〉(「MUSICA」FACT/ 07年3月号)
このように必死に自分を無くし、親のために生きてきた彼女による、初めての自立の宣言だった。
そして、宇多田ヒカルは、親からも日本の音楽業界からも離れロンドンへと旅立っていく。
この期間、デジタルシングルの断続的なリリースやラジオ出演はあったものの、表立った活動はほぼないまま、いまに至る。
音楽活動の休止を決意した時点で彼女の親からの独り立ちは大きな一歩を踏み出していたのだろうが、彼女の“家族という呪い”から解放したのは、前述した年下のイタリア人、それも、前夫とは違い業界も違うバーテンダーとの結婚であった。