〈親が仕事してるスタジオにいなきゃいけなくて、そしたら『ちょっと歌って』みたいな感じで歌わされて。イヤだなあ、なんでわたしが歌わなきゃいけないのぉ?って思ってたら、『声がいい、声がいい』って言われて〉
日本のポップミュージック史に残るシンガーでありソングライターである彼女だが、率先して音楽の世界に足を踏み入れたわけではなかった。むしろ、両親の思惑を感じとり、その期待に応えたと言ったほうがいい。
前述したエピソードの通り、ヒカルがデビューするまでの道筋をつくったのは、父である音楽プロデューサーの宇多田照實だ。
また、母の藤圭子も、娘のデビューを心から望んでいた。「女性セブン」(小学館)2013年12月26日・2014年1月1日合併号では、作家である大下英治が94年に藤圭子と会ったとき、「娘は天才なのよ。今、ニューヨークで歌の勉強をしているから、見ていてごらん。あと何年かすると、あっと驚くようなデビューを見せるから」と興奮気味に語られたと述懐している。
デビュー後、宇多田ヒカルがアルバム『First Love』で累計売り上げ枚数765万枚という前人未到の記録を打ち立てるのはご存知の通り。しかし、そんな成功の裏でも、彼女にとって“音楽をやる理由”は、“親”のままであった。前掲の「Cut」ではこう語る。
〈子供の頃ってみんな親を喜ばせたいからなにかをやるじゃないですか。その延長線で親が喜ぶからわたしも音楽やってたわけだけど〉
このように、両親の期待に応えるため音楽に打ち込んだ彼女だが、どこかで親離れはしなければならない。そのために選んだ手段は“結婚”だった。しかし、彼女の最初の結婚は5年足らずで崩壊してしまう。それは、まだ“子ども”である彼女が、自分と親の関係のために選んだ結婚だったからだ。前掲の「Cut」では、前夫である紀里谷和明との結婚を決めた理由をこう語る。
〈わたしとしては親から一旦籍を抜くみたいな、『わたしもひとりの大人なんです、あなたたちの思いどおりになるものじゃないんですよ』っていうのをちょっと示したかったりして〉
自分自身で「お互い自分のための結婚だったんですよね」と振り返る通り、そんな結婚が長く続くはずがない。しかも、親から離れるための結婚だったのにも関わらず、その夫との出会いの場をつくったのが父親だったのだから、なおさらだ。