まず、長谷川氏の「民主主義」観は、このようなものだ。
〈現代の民主主義理論は、広く「国家」のうちに錯乱を持ち込んだだけでなく、家族の内側にまで入り込んで、そこに「権力者に対する闘争」のドグマを植えつけようとしている〉
民主主義への敵視感がすさまじいが、同書において長谷川氏は、民主主義を2度の大戦の「戦勝国の原理」と述べ、民主主義が「いかがわしい」ものであるにもかかわらず、現代人はその怪しさを〈感じ取る能力そのものを失ってしまった〉のではないかと嘆ずる。そして、「大東亜戦争」を〈ごくふつうの戦争〉と肯定し、民主主義によってナチスに代表されるファシズムを生んだヨーロッパと比較して、当時の日本をこう称賛するのだ。
〈当時の日本において、人間ひとりひとりが「大衆」ではなく「人間」として尋常に振舞っていたということ自体が、稀有なことと思われてくるのである。およそヒステリーやパニックといった精神の病理とは無縁の、淡々とした合理的な頑張りの態度というものは、あの昭和二十年八月十五日の信じ難いほど整然とした戦闘終結に至るまで、日本国民全般の態度であった。そして、それを可能にしていたのは、何であれ「民主主義」でなかったことだけは確かであった〉
もちろん、民主主義が独裁を生み出すことは指摘されるべき基本の問題だが、かといって、なぜ軍部による圧政が敷かれ、戦争に駆り立てられていた民衆の態度を〈精神の病理とは無縁〉〈合理的な頑張り〉などと表現できるのか。もうこれだけで察しがつくと思われるが、長谷川氏は終始この調子で、ひたすら民主主義バッシングを繰り返すのだ。
たとえば「国民主権」については、シェイエスの『第三階級とは何か』を批判しながら、こう持論を展開する。
〈かの孔子ですら「心の欲する所に従って矩を踰えず」という境地に達しえたのは七十歳になってからのことであった。孔子でもなく、七十歳になってもいない人間たちが、「国民が欲するというだけで十分なのだ」と主張したりしたらどんなことになるか──考えるだに恐ろしいことになりそうである〉
つまり、国民=バカに主権など与えるな、と言いたいらしい。このような考えの持ち主なのだから、当然ながら「人権」などもってのほか。〈「人権」の概念はインチキとごまかしによって成り立っている〉といい、徹底批判する。