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又吉の愛読する芥川賞作家が安倍政権下で進む「全体主義」「表現の自由の危機」に警告

 そして、中村が抱いている危機感は、いまの日本に漂う全体主義の空気によって、表現が制限されるのではないか?ということにも及ぶ。

「これはあくまで僕なりの定義ですが、表現の自由というのはそもそも、時の権力・強大なものに対して言いたいことを言えることだと考えています。だから表現の自由のもとで、踏み込んでもよい範囲がどこまでなのかと考えること自体が、まず間違っているんじゃないかなと」

 踏み込んではいけない、許されない表現の範囲とは何か。その問題を考える上でまず頭をよぎるのは、サザンオールスターズ・桑田佳祐による“不敬”問題だ。昨年末の紅白歌合戦で披露したパフォーマンスが、「歌詞の内容が安倍政権批判だ」「日の丸にバツ印をつけるとは何事か」「ちょび髭姿はヒトラーを連想させる。安倍首相をヒトラーに準えるとは不敬極まりない」と批判が集中。ついには所属事務所前で抗議活動を行う者までが登場し、結果、桑田は謝罪コメントを発表するまでに追い込まれた件である。

 それだけではない。先日の憲法記念日に開かれた集会で作家の大江健三郎が「安倍」と呼び捨てにしただけで、「品位がない」「これでは議論にならない」と非難を浴びた。同じように、爆笑問題の太田光がラジオ番組で「安倍っていうバカ野郎」「私は個人的に(安倍首相を)バカだと思ってますけど」と“安倍はバカ”を連発したときも、「名誉毀損発言だ!」と怒り出す者が続出。本サイトでも、思想家・内田樹と政治学者・白井聡のふたりが対談本『日本戦後史論』(徳間書店)のなかで“安倍首相は人格乖離、マッチョなのにインポなレイプ魔”と批評したことを紹介すると、「ゲスすぎる」「ネトウヨと同レベルのヘイト」だと抗議が殺到した。

 このように、政権への批判に対して抑圧的な声が上がるのは“表現には踏み込んでもよい範囲、踏み込んではいけない範囲がある”と多くの人が考えているからだろう。人を口汚く罵ってはいけない、下品な言葉を使えばそれは批評ではなくたんなる悪口だ──そう思っているのかもしれないが、だが、中村が述べているように、権力に対してはどんな表現も許されるというのが、本来の「表現の自由」という権利なのだ。それは、わたしたちがもち得る、大きなものに抗う唯一の手段だからだ。

 だが、こうした自由さえも、現在は制限されつつある。政権は批判を受けつけず、そればかりかテレビ局に圧力をかける。さらには、先日、安倍首相のTwitterの“中の人”が山本一太議員だと露呈した際、山本議員はブログで「あまりに悪質な誹謗中傷のツイート」について「投稿した人物を(正規の手続きを踏んで)特定させてもらう。公に抗議するためだ」と宣言した。罵詈雑言だとしても、権力側はそれを容認しなくてはいけないのだが、権力者が甘んじて受けるべき批判さえ脅しをかけて封殺しようとする。こうした政権の勘違いも甚だしい態度に国民はもっと怒るべきなのに、むしろ自主的に「批判をするときは正々堂々と」などと言論に“範囲”を設け、自由を制限している。

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