この右傾化への懸念は、間違いなく小林の本心だろう。実際、昨年の「週刊東洋経済」(14年9月27日号)のインタビューでもこう述べている。
「以前はね、世の中が徹底的に左に寄っていたから、慰安婦は強制連行ではないと主張する「つくる会」や『戦争論』は極右と思われた。(略)
ところが『戦争論』以後、この十数年で、世の中が一気に右に振れてしまった。排外主義的な動きまで広がっている。政治家もそれに振り回されている。
『戦争論』では、戦前のよき伝統すら認めない戦後的価値観、あるいは一国平和主義的な戦後民主主義を否定するために、あえて「大東亜戦争論」の立場を採った。それを好戦的だと単純に受け取った連中もいたが、それは表層的な理解だ」
だが結局、ネトウヨや一部の保守主義者たちが『戦争論』に見いだしたのは、「ただ単に戦争の肯定とか、自分たちは悪いことはしていないという、『自虐史観』ならぬ『自尊史観』だった」。
安倍首相を中心とする自民党政権、親米保守を批判し、ネトウヨやヘイトスピーチを“危険なナショナリズム”と位置づける『新戦争論』。
だが、これはネトウヨのいうような“小林の左傾化”とはちょっとちがうような気がする。
思えば、あの『戦争論』から、よしりんは一貫して、「公共性の喪失」について説いてきた。90年代が終ろうとしているあの頃、戦後民主主義という「空気」に逆らえぬ現状のなかで、「個」を育むための「公」が欠如していると見た小林氏は、「大東亜戦争」の特攻隊を象徴的に持ち出し、「彼らは個をなくしたのではない」「公のために敢えて個を捨てたのだ!」「国の未来のためつまり我々のために死んだのだ!」と書いた。
翻って2015年現在。ネトウヨや保守メディアはそろって「国益」「国賊」「反日」と叫んでいる。それが東アジア情勢を鑑みたものかどうかは、実はどうでもいい。問題は、彼らのいう「国」が意味するのは、日本の伝統や文化ではなく、無省察な現状肯定と優越感、批判する者やマイノリティを排除する“政体”だという事実だ。今、本当に「国」は「公」に換言できるのだろうか。小林は『新戦争論1』でこのように言っている。
〈「国」と「公」はズレることが多い! 「国」か?「公」か?と問われたら、わしは「公」に付く! 「公」のために「国」と戦うことだってあるだろう!〉