2004年、当時、社会的に大きな感心を呼んだのがイラク自衛隊派兵だった。これに反対するため、3人の市民運動家が集団住宅で反対ビラをポスティングした。場所は立川の自衛隊官舎だ。実際に派兵される自衛隊の家族に対しその実情を訴えたものだったが、この3人は住居不法侵入で逮捕、起訴された。通称「立川反戦ビラ事件」だ。
デリバリーのチラシで他人の敷地に入ることはOKだが、政治的な主張、それも時の政権に反対するビラは、住居不法侵入で逮捕、有罪。明らかに権力による嫌がらせであり、思想弾圧とも言える事件だった。
しかし、裁判所は捜査側の恣意性を考慮することなく、いや、権力に寄り添うように有罪判決を下した。本書では08年に下された有罪判決について、近代民主主義国家の水準に達していないとこう批判している。
「およそ憲法論と評価することなど困難な代物である。まともな憲法論を展開すれば、ポスティング一般が処罰の対象とされることはない中でのこのような狙い撃ち起訴を正当化することは難しいので、実質的な理由を一切述べないことによって、何とか体裁を取り繕っているのであろう」
著者によればこの判決は「都合の悪いことには一切触れないのが、あるいは、都合の悪い部分を省略するのが、「切り捨て型」のレトリック」であり、「未だ社会にも政治にも裁判にも前近代的な残滓を色濃く残す国のそれ」とまで徹底批判している。
さらに本書では冤罪は構造的に作られてきたとして、その前提に取り調べ段階の「人質司法」(裁判所が簡単に勾留を認め、弁護士の立ち会いもなく、苛酷な取り調べから逃れられない)や検察の権限が強大でそのチェック機関もないことを指摘。その上で裁判所の問題をこう記している。
「(刑事系裁判官の)多数派は検察寄りであり、警察、検察が作り上げたストーリーについて一応の審査をするだけの役割にとどまっている。つまり『推定無罪』ではなく、『推定有罪』の傾向が強い」
裁判では検察の主張ばかり聞いて、弁護側の主張をことごとく退けると言われている。それは元判事である著者の目から見ても事実のようだ。その上で、さらに問題なのは「警察官に対する情緒的同調傾向も強い」という点だという。裁判官は警察官や検察官と同じく「役人」である。そのため「お上」的意識が強く、また裁判官と検察官の人事交流も存在する。いわば裁判官と警察官、検察官は「お仲間」とも言える関係だ。そう考えると、彼らにとって「下々の存在」である被告がいくら無罪を主張しても、裁判官は「お上仲間の検察の主張の方が正しい」と思うのも納得がいく。
先頃歌手・ASKAの愛人が覚せい剤違反に問われた事件で、一貫して無罪を主張し、物証も問題だらけにもかかわらず、2回の鑑定結果が異なった毛髪の再鑑定をせずに放置したまま、一審有罪判決を下したのもその一例だろう。