さらに憂うべき存在が、裁判所を始め権力をチェックできないマスコミだ。現在のマスコミは権力に対する監視という本来の役割を放棄しているとさえ見える。政権によるメディアコントロール、自主規制――。特に大手メディアは権力の補完、広報、下請けに成り下がっていると著者は指摘する。
「日本のマスメディアは、国民、市民の『知る権利』に奉仕し、その代理人となって司法を厳しく監視、批判し続けるという役割を半ば放棄してしまったのではないか」
同時に記者の劣化もそれに拍車をかけている。専門知識が乏しく、そのため裁判所側のレクチャーを受けなければ記事が書けないのだ。
「そのような力関係の下では、本当に適切な裁判報道、客観的な司法批判など、できるわけがない」
メディアが裁判所の広報に成り下がると同時に、裁判所幹部との交遊を自慢し、ステイタスだと勘違いする記者まで出現する始末だという。これでは、裁判所の現状を批判できるはずもないだろう。
多くの国民はおそらく、裁判所の問題にはほとんど関心がない。裁判所がいくら劣化しようが「刑事事件を起こさなければ関係がない」、そんな意識から抜け出せない。しかし、裁判所の腐敗、劣化がもたらすのは刑事事件における冤罪だけの問題ではない。
「現在の国粋的保守派の政治家の中には、およそ近代的な憲法解釈などなく、むしろ、大日本帝国憲法に深いノスタルジーを抱き、みずからのアイデンティティとしているのではないかと疑われるような人々さえ存在する。その結果、憲法違反の疑いが大きい法律や条例、あるいは政府の行為はむしろ増えてきている。たとえば、特定秘密の保護に関する法律(二〇一三年一二月成立)、憲法解釈によって集団的自衛権の行使を認めた閣議決定(二〇一四年七月、安倍晋三内閣)は、その顕著の例であろう(略)にもかかわらず、こうした事柄について司法による適切なチェックは全く行われていない。それが、現代日本の状況なのである」
実際、原発訴訟でも米軍の騒音訴訟でも秘密保護法違反訴訟でも、裁判所は国の意思を尊重するだけで、公正な判決など望むべくもない。裁判所の腐敗は私たちが政権の暴走を止める力を奪われたことと同義なのである。
(伊勢崎馨)
最終更新:2017.12.13 09:30