「さくら氏に頼まれて知人のプロダクション関係者とともに交渉に同席しましたが、それはその場の発言をちゃんと聞いた証人としてでした」(「週刊朝日」)
しかし、百田氏の役割は本当に「証人」という程度のものだったのだろうか。じつは、いまから1か月ほど前、「Yahoo!知恵袋」に今回の記事と同様の告発が書き込まれていた。その内容はさくら夫人が寄付金の放棄を迫ったことや、いったん放棄を決めたあかるクラブ側が条件をつけたところ決裂し、遺贈を受けることになったことまで、かなり正確だった。
そして、この「Yahoo!知恵袋」の告発には百田の同席もふれられており、こんな詳細が綴られていた。
〈理事の面々が報告を受けて非常に驚いたことは、その話し合いの場に、何の予告もなしに、百田氏ともうひとりの放送関係者がさくら夫人に連れられて来ていたとのこと。そしてあかるクラブに出された要求というものは、一言で云えば「つべこべ条件をつけずに全額放棄すればいいんや」ということだったらしい。誰であっても百田氏や有力な放送関係者がいれば、それだけで大きな威圧を感じざるを得なかったのではないか〉
いずれにしても、金が絡んだ交渉の場に顔を出すということは、もはや作家と取材者の関係を超えている。ノンフィクションの鉄則である“客観性”はもとから『殉愛』には微塵もなかったが、ここまでくると、百田氏はもはや、さくら夫人の“協力者”“グル”でしかない。
実際、百田氏は、あかるクラブが提示した遺贈放棄の条件について、「週刊朝日」で〈さくら氏にお金を一円たりとも自由にさせないという意思が感じられるもので、さくら氏は「疑われるなら、もういいや」と、遺言通り遺贈をすることにした〉と明かしている。たかじんの遺志を尊重しようとするあかるクラブの提示はごく真っ当だと思うが、こんなことさえわからないほど、百田氏はさくら夫人にべったりになっているようだ。
しかも、百田氏の最大の問題は、こうしたさくら夫人の寄付金放棄を要求する席に立ち会いながら、彼女が“無償の愛”でたかじんに尽くしたかのような本を書いたことだ。
百田氏はいまごろになって「そもそも『殉愛』の中で『無償の愛』とは一行も書いていない。(中略)世間が勝手にイメージをつけて、勝手に怒っているんです」(「週刊朝日」)と言っているが、『殉愛』のなかでさくら夫人がたかじんに「お金なんていらない」と話すシーンを見てきたように描き、前述したように「これらの金をさくらはまったく望まなかった」と結論づけているではないか。