VHS『山口組三代目』(東映ビデオ)より
“最後の銀幕スター”高倉健が逝去して以来、芸能マスコミや週刊誌は追悼特集で埋めつくされている。そんな中、「アサヒ芸能」(徳間書店)12月4日号が いかにも「アサ芸」らしい特集記事を掲載した。
題して「高倉健と山口組」。タイトルの横に山口組・田岡一雄三代目組長とのツーショットが掲載されている、衝撃的な記事だ。
確かに、近年はすっかりそういうイメージはなくなってしまった高倉健だが、もともとは東映の任侠映画のスター。当時は私生活でも普通に暴力団との交友をもっており、とりわけ田岡三代目との関係は有名だった。「アサ芸」の記事はその部分にスポットをあてたもので、こんな書き出しから始まる。
「高倉健と山口組──。日本を代表する俳優と日本最大のヤクザ組織の縁が始まったのは、1950年代後半にまで遡る」
高倉が東映に入社したのは55年。当時、高倉は美空ひばり主演の相手役が多かったが、ひばりの後見人は、言わずと知れた田岡一雄・山口組三代目組長、その人だった。また高倉は59年に江利チエミと結婚するが、江利はひばりの親友でもある。つまり、女性を仲立ちにするかたちで関係が始まったようで、「アサ芸」によれば、「(高倉の)結婚式には田岡三代目組長も列席した」という。
だが、その関係が「蜜月」になっていくのは、73年に『山口組三代目』で田岡組長役を高倉が演じたことだった。この映画は田岡三代目の自伝をもとにその半生を描いたものだが、ある日の撮影後、高倉は田岡三代目を訪ねていったという。
「心臓病で入退院を繰り返していた田岡三代目がちょうど在宅しており、親分の部屋で2人きりで、30分ほどでしたが、お互いをねぎらい合ったんです」
当時、雑誌のインタビューで高倉は田岡三代目について惚れ込み、共感さえ感じたことを自ら語ってもいる。
「三代目は人間的に興味ありますよ。どん底から叩き上げて、文字通り死にもの狂いでやってきた。ぼくはあの人が“他人より一杯メシを食いたかった”といっている気持ちがよくわかるんですよ」(実業之日本社「週刊小説」73年7月20日号)
そして、映画にかける強い意気込みについては、「作品の人物にホレこむという映画は久しぶりですから」と答えている。
同映画は空前のヒットとなり、田岡三代目は高倉に感謝する意味で、京都の料亭に招いたこともあったらしい。こうした交友の中で、同作の監督である山下耕作は、高倉が田岡に仰天の計画をもちかけていたことを「アサ芸」に証言している。
「高倉は『親分と同じように、頭がよくても貧しいために学校に行けない子はたくさんいる。そんな子のために山口組で育英資金を出してはどうですか』と話しかけた。すると、田岡三代目は『それはええ考えやな。さっそく検討してみよう』と即答したという」
しかも、高倉と山口組との関係はこれだけではなかった。「アサ芸」にはもうひとり、高倉と親しかったX氏という匿名の山口組最高幹部が登場する。