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追悼・赤瀬川原平 40年前に遺したマッピング作品「論壇地図」のタブーとは?

 続く翌72年1月号では「現代読書考」と題し、誌面いっぱいに本をずらりと並べ、その背表紙の人名と書名により当時の言論状況を表現した。ただしその書名はすべてパロディになっている。たとえば、川端康成の本のタイトルは『伊豆の踊子』ではなく、『秦野の踊子』。これは川端が前年の東京都知事選で、保守系候補の秦野章(元・警視総監)の選挙応援を行なったことを茶化したものだ。イラスト中には本だけでなく、映画館の上映ラインナップや、さまざまな物品も描かれ、大島渚の映画のタイトルが『儀式』ならぬ『図式』になっていたり、ツルハシに「竹中労務店」という荷札が掛かっていたりする。後者はルポライターの竹中労に引っ掛けたもので、本人はこれに喜んでいたという。一方、大島渚は、自分の『図式』に怒りながらも、他人のところは大笑いしていたらしい。

 なお、「現代読者考」の最終ページには、協力者として松田とともに新崎智というクレジットがある。のちに評論家となる呉智英の本名だ。呉智英はこのとき、尊敬している作家の石川淳の本はいい場所に置き、嫌いな書き手の本はすべて荒縄で縛ってゴミ箱に突っ込むようアイデアを出したという。当時30代半ばの赤瀬川が、まだ20代だった2人の意見を聞きながら絵を描いていく光景を想像すると、ほほえましくもある。

 さらにあくる年、73年1月号の「皇紀二千六百三十二年大日本民主帝国論壇地図」からは、“作画師”の赤瀬川と“配置師”の松田に加え、赤瀬川の「美学校」での教え子である南伸坊(クレジットでは本名の南伸宏)が“似顔絵師”として参加する。同時に、論壇地図は雑誌本体から分離され、大判の紙に掲載されるようになった。それだけに、いままで以上に凝ったものとなり、総計500人以上におよんだ人物にはそれぞれフキダシが付され、前年の事件などに関する発言が書きこまれている。前年の72年といえば、旧日本兵・横井庄一のグアム島からの帰国にはじまり、連合赤軍あさま山荘事件や沖縄返還、日中国交正常化など大きなできごとがあいついだ年だが、それらに著名人がどんな反応を示したのか、この地図を見れば一目瞭然だ。

 ちなみに、このとき本来の絵では最上部の中央に昭和天皇と皇太子(現・天皇)の一家が描かれていたものの、版元の総会屋の社長から「まだ、天皇が中心だという考えを持っているのか」と妙なクレームがつき、雑誌掲載にあたっては天皇の姿は雲で隠されることになった(無修正版は、のちに青林堂から刊行された『櫻画報大全』に収録された。最近出た河出書房新社の『文藝別冊 赤瀬川原平』にも縮小して再録されている)。

 それにしても、ここまで細かく描かれていると、つくり手の苦労もしのばれる。実際、赤瀬川たちは毎年締め切りが近づくと、家に集まって合宿体制で制作にあたったという。ある年など、南伸坊が最後に残った3人分の似顔絵がどうしても描けず、すでに仕事を終えた赤瀬川と松田は夕食に出されたタラチリ鍋を「絵ができてから食べよう」と待っていた。しかしそれにかえってイライラを募らせた南は、ついには「どうぞ、先に食べてください!」と怒りを爆発させたという(赤瀬川原平『全面自供!』晶文社/2001年)。

 結局、あまりの重労働に耐えかねて、翌年は「もう、やりません」と断り、代わりに編集部の手になる論壇地図が載るのだが、読者から「面白くない」と投書が来て、翌々年にはまた赤瀬川らが再登板するということが繰り返された。

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