本書が指摘していたように、たかじんは「在日」というルーツに強いコンプレックスをもっていた。だからこそ、その裏返しとして「日本」という国家を強固にする思想、それを主張する権力者に傾倒していったのではないだろうか。「日本人より日本人らしく」ありたい、そういう思いの表れだったのではないのか。そんな気がしてならないのだ。
だが、こうした分析とは異なるもうひとつのエピソードが本書には紹介されている。それはビートたけしとの関係だ。
かつてたかじんは東京の大物芸人であるたけしに批判的だった。92年8月7日号の「フライデー」(講談社)でたかじんはたけしにこう毒づいている。
「たけしも明らかに疲れとる。ところが漫才をせえへん彼のフィールドはテレビにしかないから、走り続けなあかんワケや。映画や本をやるのは『オレはもうあかん』というエクスキューズにすぎんのやな。その一方でオレがやっているから大丈夫みたいな甘えもある」
しかしその1年後、『たかじんnoばぁ〜』(読売テレビ)へのたけしの出演が実現する。番組内で「映画などは適当にやっても、お笑いだけは絶対に手を抜かない」などと話すたけしに、たかじんはそれまでのたけし批判などなかったかのように、称賛を繰り返した。
そして、出演料はいらないというたけしに、番組収録後は北新地で接待し、ポケットマネーで付き人に200万円を渡し、同番組の最終回ゲストに再びたけしを招くという最大限の待遇をしたのだ。
「ビートたけしに対する批判も、的を射ているからこそ関西人は拍手喝采を送ってきたはずである。ところが批判していた東京の大物タレントが自分の番組に来てくれただけで、手のひらを返したかのようにありがたがっている。その変わり身の早さは、御都合主義、権威主義に見えなくはない」
気に入らないものに対しては容赦ない毒舌を浴びせかけたたかじんだが、“権力者”に直接会ってしまうと、態度を豹変させ、まるで揉み手をするように摩り寄ってしまう。そんなところがあったのだ。もしかしたら、政治家への擦り寄りも、単純にそういう性格が出たというだけなのかもしれない。
しかしいずれにしても、無頼で豪快、毒舌と反骨というイメージとは全く別の側面をたかじんが持っていたことは間違いない。著者は多くの関係者を取材してこんなことを思ったという。
「『ややこしい人やなあ』という印象である。繊細かつ純粋で、思ったことをすぐに行動に移す一本気な人物である一方、内気で見栄っ張りで打たれ弱く、だからこそ大きく見せようとするところがあった」
そして、そんな人物が安倍晋三の再登板を後押しし、橋下徹という政治家を生み出した。ある意味では、彼の存在が日本の政治の方向性を大きく変えたといってもいいかもしれない。それがこの国にとって幸福だったのか不幸だったのか。できることならば、天国のやしきたかじんに、いつか改めて聞いてみたいところではあるが……。
(一場 等)
【考察!人間・やしきたかじん→(第1弾)(第2弾)】
最終更新:2015.01.19 05:35