たとえば、『松本人志の怒り 赤版』の「竹島問題」の項では、「母国愛で片付けてしまっていのかなぁ。本質が見えなくなっていますね。母国愛が強すぎて愛が見えなくなっていますよ」と本質を喝破するような指摘をしたうえで、こんな発言をしている。
「いちばんいいのは、あの海から出っ張っている部分が沈んでしまってくれることです。」
また、『プレイ坊主』では、「選挙にはいった方がいいか」という読者の質問に、「ボクは選挙に行った事が…一度もないですね。ずーっと(大阪の実家から)住民票を移してなかったですからハガキがこない」と、驚愕の事実を告白。そして「選挙をなくしてしまう選挙ならボクも投票に行きますけどね」と、民主主義の根幹となる制度を一蹴してしまう過激さだった。
そんな松本人志がいったいいつからこんなつまらない、ただのフォロー係のようなことしか言えなくなってしまったのだろうか。
松本は以前、やはり「週刊プレイボーイ」の連載でニュース番組について語ったことがある。その文章で、松本は大衆に迎合してワイドショー化しているニュース番組の現状を批判して「どんなニュースキャスターよりも、ボクのほうが軸がブレてないし、正義感が強いんじゃないですかね」と自信満々に語っていた(『松本人志の怒り 青版』に収録)。しかしいまの松本は、大衆に迎合し、それこそブレまくりなのである。
これは、年齢の問題なのだろうか。たしかにそれもあるだろう。かつては、すべてをストイックにお笑いに捧げ、刃物のように尖っていた松本も、家庭をもち、子煩悩な一児のパパになった。今の地位や家族を守るために、炎上を避けたいという気持ちが過剰になっているとしてもおかしくはない。
だが、ワイドナショーの松本を見ていると、もうひとつ別の問題も感じるのだ。それは、「お笑いの限界」という問題である。
たしかにお笑いという表現は既成の価値観をひっくり返すような過激さをもっているが、その根底には必ずウケることへの欲望が横たわっている。つまり、最初は対立構図や違和感を用意していたとしても、最後は必ずその場にいる人間全員に「おもしろい」というひとつの感情を共有させる方向に向かっていく。
しかし、ニュース番組やディベート番組はまったくちがう。議論のすれちがいやコントロールのきかない感情的対立、違和感がむき出しになったまま放り出されてしまうことがままある。つまりある種のサムい状況が起こらざるを得ないのだ。そして、逆に言うと、それこそがニュース番組のおもしろさなのだが、おそらく松本たちお笑い芸人はそのサムさに耐えられないのではないか。だから、ひたすら空気を読んで、ハプニングの目をつみ、みんなが安心できるような方向に話をまとめてしまう。
松本は常々、お笑いはもっともセンスの必要な表現であり、お笑いこそが万能であると語っていた。しかし、少なくともお笑い芸人はニュースやジャーナリズムには向いていないのではないか。『ワイドナショー』をみるたびにそんなことを考えてしまうのである。
(酒井まど)
最終更新:2014.09.16 07:49