つまり、グリーンブラット氏がシェイクスピア作品に出てくる暴君とトランプの共通性を見出したように、宇野教授もまた、『暴君』の書評を通じて、安倍・菅政権で起きた独裁政治を解読しようとしたのではないか。
実際、『暴君』には、シェイクスピアの描いた「暴君」たちについて、こんな描写・分析が出てくる。
〈暴君は命令を発するのみで、もちろん自ら手を汚したりはしない。〉
〈ケイドのとんでもない暴言、過ち、あからさまな虚言を冷静な人がすべて指摘したとしても、怒った群衆が黙らせるのは指摘した人のほう〉
〈これらの嘘がしっかり信じられないとしても、ある程度の効果はある。ずっと虚偽を連続して浴びせ続けると、疑い深い人たちは隅に追いやられ、混乱を生み、本来なら起こるはずの抗議の声も生まれないことがある。〉
〈暴君に仕えるのは、暴君と同様に自分のことしか考えない悪党だけだ。〉
〈暴君は正直な忠誠だの、冷静で偏見のない判断だのに興味はない。むしろ追従と確認、そして従順さがほしいのだ。〉
〈いらいらは、シェイクスピアの見立てでは、権力を握った暴君が必ず見せる特質だ。自分がそうしてもらいたいと思うことは、いちいち口にするまでもなく、さっさと実行してもらいたいと思っている。〉
〈暴君には、事実や証拠などどうでもよい。自分が非難しているだけで十分なのだ。誰かが裏切り、嘲り、こちらをスパイしていると王が言えば、そうに違いないのだ。反対する者は嘘つきか愚か者だ。かりに誰かの意見を求めるようなふりをしても、意見など欲しいわけではない。〉
〈暴君が本当に求めているのは忠誠であるが、誠実、名誉、責任を伴う忠誠ではない。暴君が求める忠誠とは、暴君の意見を臆面もなく直ちに承認し、暴君の命令を躊躇なく実行することだ。ワンマンの被害妄想の自己愛的な支配者が、公務員と席をともにして忠誠を求めるとき、国家は危険なことになる。〉