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ゴーン会見で問われた日本マスコミの姿勢! 安藤優子は仏メディアの質問に「ゴーンは私たちを検察の代弁者だと考えている」

 しかし、それも当然かもしれない。なぜならほとんどの国内マスコミは、その検察の違法なリークに丸乗りして、検察に都合のいいストーリーを、まるで事実かのように垂れ流す共犯者だからだ。

 たとえばこの日の『グッディ』では、ベイルートの会見場の外で安藤優子がフランスメディアから取材される姿が放送されたのだが、「なぜ会見場から排除されたと思うか?」と質問されたのに対し、安藤はこう答えていた。

「ゴーンは、私たちのことを『検察の代弁者』(speaker of Japanese prosecutor)だと考えている」

 続けて「それは事実じゃない」「検察の代弁者ではない」「私たちはフェア」などと否定したのだが、いちおう安藤は少なくともそう批判されているという自覚はあるようだ。

 自覚の有無にかかわらず日本マスコミが「検察の代弁者」というのはまぎれもない事実だが、しかし、日本メディアが「検察の代弁者」になっているという問題について、そのあとスタジオで議論されることはなかった。もちろんこれは『グッディ』に限った話ではない。ゴーン氏は会見で、日本の司法制度や検察を批判するのと同時に、検察のリークに丸乗りして検察に都合のいいストーリーを垂れ流す日本メディアを「検察のプロパガンダ」と批判していた。しかし当のマスコミは、自覚的なのか無自覚なのかわからないが、検察のリーク(とそれを垂れ流すメディア)問題についてまったく議論すらしようとしない。

 日本の司法制度の非人権性については、ゴーン氏の会見以前から海外メディアに強く批判されている。にもかかわらず、この国のテレビマスコミは、会見でゴーン氏が司法批判を展開すると、逆ギレするかたちで「この犯罪者!」と罵る。ただ検察が垂れ流している情報を鵜呑みにして、「悪人ゴーンに法の鉄槌を」と吠えるだけで、検察による不当逮捕や国策捜査の可能性と危険性への視点がまったくないのだ。

 それは、このゴーン事件にかかわらず、日本のマスコミがいかに捜査当局にとって都合の良い存在かを意味している。当局のほうは、政権の意向を背景にして、大企業と手を取り合い、マスコミを動かせば、そんな無理筋でも“白”を“黒”にできると本気で思っているのだろう。一方、マスコミの使命は本来、こうした公権力の暴走を食い止める監視役であるはずだが、ゴーン氏関連の報じ方を見ていると、まったくそんな気概は感じられない。

 ゴーン事件によって日本司法の後進性と非人権性が国際社会に広く知れ渡った。森雅子法務大臣は、ゴーン氏の会見を受けて「潔白と言うのならば司法の場で堂々と無罪を証明すべき」と言い放ったが、実際には刑事裁判で立証責任を負うのは検察であり、被告が無罪を証明する必要はない。そんな当たり前のこともわかっていない人を法務大臣にしてしまう安倍政権のレベルには言葉を失うが、低レベルなのはマスコミも同じだ。

 中世並みとも評される非人道的な司法制度や不当な国策捜査を温存させているのは、このように権力の監視役という責務を放棄し当局の言い分を垂れ流すマスコミの責任が大きいことを、あらためて指摘しておきたい。

最終更新:2020.01.10 03:14

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