金栗が感極まって、「よかです。そってよかです。播磨屋の金メダルたい。ありがとうございます」と返したところで、このシーンは終わる。
それだけだが、しかし、これらのシーン、演出からは、クドカンと制作スタッフが、当時のナチスのファシズムや日本の韓国併合によってオリンピックが歪められていた事実を何とかギリギリのところで描こうとした、その思いは十分うかがえた。いや、それだけでなく登場人物に語らせた「日本人だろうが朝鮮人だろうが…」というセリフには、嫌韓一色に染まる現在の日本の状況への批評の意味合いもあったはずだ。
安倍政権の圧力や、ネット右翼の炎上攻撃でメディアが萎縮する中、『いだてん』がこうしたメッセージを届けようとした姿勢は評価すべきだろう。
しかし、その一方で、この描き方では、当時の韓国併合の現実や朝鮮出身選手をめぐる状況をきちんと伝えきれないこともまた事実だ。
『いだてん』のなかで「どんな気持ちだろうね」と言われていた孫は、実際、表彰台の上で何を感じていたのか。孫の自伝『ああ月桂冠に涙』(講談社)には、こう記されている。
〈金メダルが首にかけられ、勝利の栄光を象徴する月桂冠が頭にのせられた。スタンドの観衆が割れんばかりの拍手を送ってくれている。私に、私のために……。
「ああ、私は勝ったんだ」
青春のすべてを賭けて、空腹に耐えながら走り続けた甲斐があった。この日のために、なんとぼう大なエネルギーを費やしたことか。数時間前の、あの炎天下での死闘がウソのように、私の心は落ち着き、いま最大の栄誉を与えられて感激に浸っている。〉
当時のオリンピック記録で金メダルを勝ち取った孫基禎を、観客は大歓声で迎えた。だが次の瞬間、孫のなかで、大記録達成の感動はまったく別のものに変わってしまった。
〈やがて、国旗掲揚となった。メイン・ポールにスルスルと上がっていく日章旗。
「あっ、あれは……」
そう、あれは日本の国旗ではないか。
「オレはコリアの孫基禎なんだ。オレは日本人ではない……」
たったいま感激にうち震えていた胸は、一転して憤怒に変わっていた。
「どうして私の優勝に日章旗が掲揚されなければいけないのだ。どうして君が代がベルリンの空に響き渡っていなければならないのだ」
これが果たして、私の優勝の代償なのだろうか。亡国民の悲惨な烙印を消しきれない焦燥感にかられて、自分がのろわしくてならなかった。〉
孫基禎は、日韓併合から2年後の1912年、朝鮮半島北西部の新義州に生まれた。貧しい家に育ち、陸上選手となって以降も日本人から差別的な待遇を受けたという。栄光に浴するはずの表彰台の上で、孫の目に飛び込んだ「日の丸」の旗。それは、自分の祖国を奪った日本が称えられているという事実、つまり、自らのルーツを否定するものでしかなかったのだ。