室井 映画や文章の良さって、何十年後の人が見て、そのときの社会や文化や流行りものや、そのときにあったことがリアルに浮かんでくることだと思います。でも最近は闘っていないとまでは言わないけど、ちょっと嘘を作っている感じもします。
原田 そうなんですよね。確かにリスクを冒す企画が通りにくい傾向はあるかもしれません。ただ時代によって入れる要素は変わる。たとえば『検察側の罪人』の原作が刊行されたのが2013年。そして取調室で録画や録音をする“可視化”が始まったのは2016年。ですから「可視化」という時代に合わせた話に持っていかなきゃいけない。僕が日本映画界の中で敬愛するのが黒澤明監督と小津安二郎監督ですが、黒澤監督はどんなものを作ってもその時代の社会とのかかわりのなかで作っているんです。それがもっとも如実に出ているのが『生きものの記録』(1955年)で、そのあとの汚職が日本社会を揺るがしていた頃の『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)もそうです。『用心棒』(1961年)や『椿三十郎』(1962年)などの時代劇でも日本社会に対するメッセージがあって。僕もそういう比喩・隠喩を使いながら、今の社会に対して、たとえば自分が映画を作るときにどうなったら困るのかという恐さを、たえず映画のなかに込めていきたいと思っています。『検察側の罪人』でも、まさに我々が今考えている“日本が変な方向に行っている”ことを、主人公の口を通せば自然に表現できる。
室井 現在の日本のジャーナリズムがなかなか切り込まないところに、作品が切り込んでいました。
原田 突き詰めて考えていくと、メディアスクラムもそうだし、メディアの危険性はいっぱいある。日本のメディアの自由は北朝鮮よりちょっとマシなだけという調査もありましたね。今回も少し危惧していたんです。さまざまな社会風刺を入れたことでメディア全体がこの作品に反対するかもしれない、と。しかしそんなことはなかった。反発したのは一部なんです。メディアの中で闘っている人も結構たくさんいる。NHKは会長が変わってよくなったじゃないですか。テレビ朝日はどんどん悪くなっているけど、あれはトップが安倍さんとべったりだから。そういう中で、個人で努力してなんとかしようとしている人たちもいる。そういう人たちからの応援は感じています。ただ全体的にメディアの大多数が体制寄りになっていくことの怖さは、戦前を思わせますよね。
室井 わかります。組織の中でもわかっている人と、そうじゃない人がいますから。わたしが驚いたのはやはり原発事故が起こったとき。「まだ今じゃない」と言っていた大手マスコミの人がいた。末端のわたしでも「この事故はやばい」という情報は入ってきていました。だから、メディア中枢の人はもっと詳しく危機的な状況を知っていたはずなんです。でも、「まだ今じゃない。動くべきときはこの先もっとくるはずだから、今自分が動いても辞めさせられるだけだから」という意識で。すごいびっくりしました。