このうち、矢内原事件は、東京帝国大学教授の矢内原忠雄が雑誌「中央公論」で“国家が混迷するとき理想に照らして現実の政治を批判する必要性”を説いた論考が、すなわち学説や研究内容でなく「メディアでの発言」が糾弾され、結果、辞職に追い込まれた事件である。
矢内原事件の特性に着目した将基面貴巳『言論抑圧 矢内原事件の構図』(中央公論新社)によると、蓑田は矢内原の言論活動を「侮日的」「抗日的」と繰り返し非難していた。〈矢内原による当時の日本における政治的現実に対する理想主義的批判が、ことごとく日本に対する「呪詛」であると蓑田が考え〉、〈日本を超える「正義」を措定し、その地点から現実の日本を批判することは、原理的に日本に対する信仰を否定するものであり、それは、蓑田にとって日本に対する侮蔑にほかならなかった〉という。
それから80年が経った現在、またぞろ溢れかえっているのが「SAPIO」や産経新聞のような“「反日日本人」叩き”というわけだ。連中の根底にたいそうな右翼思想などないと思うが、史実が教えてくれるのは、「日本」を絶対化し、かつ現実の政体を「日本」と同一に見做すとき、政体へのいかなる批判も直ちに「反日」として糾弾されるということ。そして、忘れてはならないのは、この国がそうした観念と心中するかたちで一度は破滅しかけたということだ。
逆に言えば、現在の“「反日日本人」叩き”も、つまるところ、安倍政権を「日本」に見立てているという信じがたい事実から、政治権力による批判言論の弾圧に容易に転用されうるのである。そこには、この国はかくありたいという理想像すらない。結局、連中ががなり立てているのは「安倍政権を貶める日本人をあぶりだせ」という宣伝に他ならず、極めて危険な兆候だ。
ジャーナリストの池上彰は、慰安婦報道問題での朝日新聞バッシングが吹き荒れた2014年、「世界」(岩波書店)12月号でのジャーナリスト・二木啓孝との対談のなかで、こう警鐘を鳴らしていた。
〈今回、一番私が違和感を覚えるのは、「国益を損なった」という言い方です。極端な言い方をすれば、メディアが「国益」と言い始めたらおしまいだと思います。〉
〈これが国益に反するかどうかと考え始めたら、いまの政権を叩かないのが一番という話になるわけでしょう。それでは御用新聞になってしまう。私は、国益がどうこうと考えずに事実を伝えるべきで、結果的に国益も損ねることになったとすれば、その政権がおかしなことをやっていたに過ぎないと思います。〉
池上の指摘も虚しく、いまやそれは“「反日日本人」叩き”というかたちで、よりグロテスクかつ底の知れないものになってしまった。この調子だと、安倍政権が目論む憲法9条改憲でも、反対した国民はみんな「反日」と攻撃・弾圧されてしまうのが目に見えている。
(宮島みつや)
最終更新:2018.01.11 01:09