そう考えると、ネトウヨの炎上を恐れ、こうあってほしいという春樹像に縛られ、村上春樹が『騎士団長殺し』に込めたメッセージをまともに伝えられないメディアの姿は、皮肉にも、春樹が突きつけた問いの有効性を証明したといえるだろう。
本稿前編でも指摘したように、春樹は『騎士団長殺し』で戦争の被害でなく、加害者としての問題にこだわっていた。
ナチスへの抵抗運動に参加したものの失敗し日本とナチスドイツの同盟関係の政治的配慮によりにただひとり生き残った雨田具彦のことも、南京虐殺で捕虜を殺害させられた雨田継彦のことも、もちろんその苦況に心は寄せるが、しかし彼らをただ戦争に巻き込まれた被害者として免罪することをせず、その加害の責任を問う視点を持ち続けていた。
軍隊などの暴力的なシステムにいったん組み込まれたらノーと言うことは難しい。実際に戦場に置かれてみれば、戦時中の監視社会に置かれてみれば、命の危機にさらされたなら、それに抵抗できなかった者を誰が責めることができるのか。しかしそれでも、そういう国家や社会、システムにノーと言えなかったことの罪はないのか。村上春樹は、それを問うていた。
『騎士団長殺し』の物語終盤には、騎士団長が絵から飛び出し、死が目前に迫った雨田具彦を前にしている〈私〉にこう語りかけるシーンがある。
「見なくてはならないものを見ているのだ」
「あるいはそれを目にすることによって、彼は身を切るほどの苦痛を感じているかもしれない。しかし彼はそれを見なくてはならないのだ。人生の終わりにあたって」
そう。私たちは見なくてはならないのだ。国家や社会、システムにノーと言えなかったことの罪はないのか。この村上春樹の問いは、戦時中のことだけでなく、もちろんいま現在安倍政権の独裁政治を許している私たちに突きつけられているものだ。
本サイトはどんなに政治的だ、無粋だと言われようが、『騎士団長殺し』は安倍政権の歴史修正主義と対決する小説だと断言し、村上春樹の姿勢を支持したい。
(酒井まど)
最終更新:2017.12.04 03:12