いったいなぜ彼らは、『騎士団長殺し』の核心部分である歴史修正主義批判をさけようとするのか。
ひとつの理由は、ネトウヨたちによる炎上を怖れてのことだろう。事実、発売直後、南京虐殺についての記述をめぐって、百田尚樹、桜井誠、産経新聞などが春樹を「中国に媚びてる」「中国での商売のため」「ノーベル賞狙い」などと猛批判した。このテーマにふれたら、自分たちもその炎上に巻き込まれかねない。情けないことだが、その怯えが批評を核心から遠ざけている部分はあるだろう。
また、もうひとつ、これには「春樹作品に政治を持ち込むな」という春樹ファン特有の思考がもたらした影響も否定できない。社会問題にコミットしないデタッチメントの姿勢を鮮明にしていた初期のイメージにとらわれ、政治問題にかかわることはダサい、春樹がそんなダサくて野暮なことをするわけがない、政治的な文脈で春樹作品を読むべきではない、とひたすら目を背けつづけてきた。
そして、今回、ネトウヨたちからよせられた『騎士団長殺し』への攻撃に対しても、まともに反論することはせず、「単なる一部の記述にすぎない」「作品の本筋とは関係ない」などと、問題を矮小化しようとしてきた。
しかし、こうした態度はあまりに、春樹の変化に鈍感すぎるというものだ。たしかにデビュー当時の春樹は、社会問題にコミットしないデタッチメントの姿勢を鮮明にしていた。しかし、90年代半ばに発表した『ねじまき鳥クロニクル』ではノモンハン事件、満州での中国人撲殺を描き、1997年には、オウム真理教をテーマにしたノンフィクション『アンダーグラウンド』を発表。近年は国内でも散発的に政治的発言をするようになっている。
その変化は「デタッチメントからコミットメントへの転向」として語られたこともあったが、これは「転向」などではない。春樹は、デビュー当時から、デタッチメントであると同時に徹底的に「個人」であることを貫いてきた作家だ。近年、春樹が政治的発言をするようになったのは、明らかに「個人の危機」を感じ取っているからではないのか。
デタッチメントな態度が許されるのはあくまで個人の権利や自由が保障された社会であればこそだ。いったん戦争が始まれば、あるいは全体主義や国家主義のもとでは、全体に同調しないものは異物として排除され、個人の意志は簡単にないがしろにされ、デタッチメントでいることなど許されない。「個人の自由」が危機にさらされるならば、春樹がそれにビビッドに反応し抵抗することはむしろ当然のことだ。