加川は「教訓I」で、こういった教育勅語的な考えからの逃避と反発を歌っているわけだが、「国のために命をも含んだすべてを奉仕せよ」という全体主義やマッチョイズム的価値観への憎しみは他の曲でも登場し、同時期に発表された「できることなら」という楽曲ではこのような歌詞が歌われている。
〈他人を信じちゃいけませんよ 祖国を愛するなんて信じるなんて 泣かないうちにおやめなさい できればあなた自身も信じぬように 女々しく女々しく暮らしましょうよね〉
加川良は社会派フォークシンガー一本槍の人ではなく、アングラフォークのブームの後は、もっと自身の生活に寄り添った歌やラブソングなどを歌うようになり、「教訓I」もコンサートで歌わなくなっていく。しかし、だんだんとその考えは変わっていった。なぜなら、「国のためなら個人の思いは踏みにじってもかまわない」という価値観は時が経ても変わらず、「教訓I」の伝えるメッセージは残念なことに新鮮なままだったからだ。「アサヒグラフ」1989年5月26日号に収録されたインタビューではこのように語っている。
「『教訓I』? もう必要ないんやないかって、十年くらい歌わなかった時もありましたけど、今すごい新鮮な歌です。平和そうやけどこのままでええんやろうか、原発のことも含めて今みんな疑問を持ち始めてるのと違いますか」
その思いは21世紀に入ってからも変わらない。小泉政権がイラク戦争に自衛隊を派遣した際には、その動きに反対する集会が各地で行われ、加川もそういった場所で「教訓I」を歌ったことがあった。「週刊金曜日」2004年6月11日号のインタビューで加川はこのように答えている。
「自分の歌も、フォークソングと呼ばれようが、歌謡曲と呼ばれようが、結局は僕の音楽なんです。かつて作ったから古くさく、新しいから新鮮に歌えるなんてことはない。ライブでも毎回、そのときに新鮮に歌える曲を選んでいます。「教訓I」もどんな時期に歌ってもいいと思っているだけです。僕らが歌い出したころと、そんなに世の中は変わっていないし、僕らもそんなに変われるものではないですよ」
結局、「教訓I」は発表されてからいまにいたるまで一度も古びることはなかった。いや、むしろ、いまの時代にこそ「教訓I」で歌われている言葉は強く響くのではないだろうか。原発事故で故郷を奪われた人々の心は踏みにじられ続ける一方で、国家的行事の東京オリンピックには湯水のように税金が投入される。また、政権とそれを支持する人々からの「愛国」の強要はかまびすしく、あろうことか首相は自衛隊のことを「我が軍」とまで呼び出し、いつ死者が出てもおかしくなかった南スーダンへの自衛隊派遣も、数々のインチキを押し通して強行してきたのはご存知の通り。「御国のため」なら命の一つや二つ失われても何の心も痛まないということの証左だろう。