「製作費が150億円以上の映画を作った場合、中国市場で当たらないと絶対にペイしないので、中国の厳しいレイティングを潜り抜けないといけない。その際はアメリカのレイティングは無意味ですから」
「バイオレンスや過激な性的描写が減ってきているのも、マーケットによるものです。実際、『ワールド・ウォーZ』(2013年)はプロデューサーも務めていたブラッド・ピットが、クライマックスを全て変えて、バイオレンスをゼロにしてかなりの利益をあげました」
その傾向は日本映画においても変わらない。1970年代の日本は『トラック野郎』シリーズや『仁義なき戦い』シリーズをはじめ、エロとバイオレンスが入り交じった過激な映画を量産した国として知られていたが、80年代に入りだんだんとその潮目が変わっていく。2013年8月6日放送「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」(TBSラジオ)内の「映画が残酷・野蛮で何が悪い特集」と題された対談のなかで、映画ライターの高橋ヨシキはその変化についてこのように語っている。
「やっぱりそのマーケティング志向みたいなことがあってですね。ちょっとイヤらしいんですよ。元々。で、何でマーケティングがイヤらしいかっていうと、結局忖度をするからなんですよね」
マーケティング的思考というお題目のもと、クレーム回避のため過激な描写はどんどん押さえ込まれ、表現の送り手側も、いつしか行き過ぎたポリティカル・コレクトネスを内面化していってしまう。しかし、果たしてそれは正しいことなのだろうか?
『はだしのゲン』を「間違った歴史認識を植え付ける」「首を切ったり、女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」などとして学校の図書館から撤去するよう全国の自治体で相次いで運動が起きた件は記憶に新しい。だが、一読すれば誰でも分かる通り、『はだしのゲン』は、ただ面白おかしく興味本意でそのようなシーンを描いたわけではない。それらは「戦争」の渦中で実際に行われたむごたらしい事象を描いたものであり、それは現実に起きたことで、今後もし日本が戦争に巻き込まれれば確実に起きることの予言でもある。
フィクションには、目を背けたくなるようなショッキングな出来事を敢えて見せることで、受け手に現実の真の姿を疑似体験させるという役割がある。『はだしのゲン』の目的はまさに、戦争の残酷さを生々しく見せることで、絶対に戦争を繰り返してはいけないと読者に強く思わせることだ。そのためには、戦争の残酷さをリアルに描くことは絶対に必要な描写である。それを「過激」であるとして押さえ込もうとするのは、端的に言って、作者の意図を何も読み取れていない馬鹿としか言いようがない。前述の番組内で、高橋氏はこのようにも語っている。