また、1998年は、宇多田のほかにも、椎名林檎、aikoといったゼロ年代からテン年代のJ-POPシーンで第一線に立ち続けるシンガーソングライターがデビューした年でもある(ちなみに、前年の97年、邦楽ロックシーンでは、後のバンドに大きな影響を及ぼす、NUMBER GIRL、くるり、SUPERCAR、中村一義の通称「97年世代」がデビューしている)。
この流れで、音楽業界の潮目はニューミュージック時代に続き、再び「自作自演」の時代となった。事実、椎名林檎は「MUSICA」(FACT)2007年8月号のインタビューで「いつの間にか、曲を自分で書いてる方が偉いみたいな」というインタビュアーの質問にこう答えている。
「ちょうどそうなった時期が、私がデビューした時期だと思いますね、ミュージシャンを神格化するっていうか、自分で曲を書いてるから内容のある歌手みたいな。それが本物みたいなね(笑)。本物/偽物みたいなことをすぐ言うようになりましたよね」
この、自作自演か否かによって「本物/偽物」を分ける考え方は、その後のアイドル・アニソンの隆盛により多少の揺らぎはあるものの、基本的には変わっていない。そして、その時代の価値観をつくりだした中心にいたのが、宇多田ヒカルであったのは疑いようのない事実だ。
ただ、そのなかでも宇多田が特異だったのは、彼女は作詞・作曲のみならず、楽曲制作におけるありとあらゆる権利を自分の手に握っていたことだ。
〈日本でデビューするにあたり、所属事務所となるU3 MUSIC(社長・宇多田照實)から東芝EMIサイドに提示した条件の中には、宇多田ヒカルが自由に音楽制作をできる環境を作ること、また彼女は自由に曲や歌詞を作り、そのできあがったものに対しては第三者が手を加えないこと、という条件があった〉(『点-ten-』/EMI Music Japan・U3 MUSIC)
宇多田はデビュー時からクリエイティブ面に関して、完全な自由を獲得する。このような権利をキャリア初期から獲得していた特殊なミュージシャンの例として、他にプリンスがあげられるが(プリンスはあまりに大きな「自由」を手にし過ぎたがゆえにセールス面で自滅する時期があるのだが、それはまた別の話)、宇多田はそれに匹敵するほど大きな権利を得る。
彼女はこの権利を後ろ盾に、キャリアを重ねて行くにつれ、どんどん自分一人で作品をコントロールするようになっていく。彼女の楽曲においては、バックコーラスの声も、多重録音によりすべて宇多田本人が歌っているというのは有名な話だが(同様の制作システムを導入しているミュージシャンに山下達郎がいる)、この他にも、彼女はアルバム制作を重ねるにつれ、アレンジからプログラミングにいたるまですべての音を統括するようになっていくのである。
キャリア初期から作詞・作曲は自らの手によるものだったが、編曲に関しては外部に任せていた宇多田ヒカル。しかし、2枚目のアルバム『Distance』に収録されていた楽曲「DISTANCE」を壮大なバラードにアレンジし、8枚目のシングルにもなった「FINAL DISTANCE」以降、彼女は編曲面の仕事にも大きく関わるようになっていく。そして、04年発表の「誰かの願いが叶うころ」以降は、ほぼすべての曲で彼女が単独で編曲を行うようになった。そのことにより、「新世代R&Bの歌姫」といったデビュー当初盛んに喧伝されたジャンルの枠組みにはおさまらない固有の作風を築いていくことになる。それは、クリエイティブに関する権限をすべて手に入れるという、これまでの音楽業界の慣例から見れば異例な権利を持ち得たからこそもたらされたものだった。