一般にその起源は、1978年、円高ドル安の影響で対米貿易で黒字状態にあった日本が、ベトナム戦争中で財政難と経済不況にあえぐアメリカに対し、前述のとおり、日本人基地労働者にかかる費用の一部を負担するとしたこととされている。当時の防衛庁長官・金丸信は国会で「思いやりの精神で米軍駐留費の負担増に応じる」と答弁。その発言から「思いやり予算」という名が通称化した。
しかし、実は、その雛型は金丸長官の「思いやり」発言の以前、71年の沖縄返還交渉時には、すでに形成されていたことが判明しているのだ。
毎日新聞記者時代に日米密約の闇に迫り、当局によって不当起訴された西山太吉氏は、著書のなかで「思いやり予算」の原型についてこう記している。
〈(返還交渉のなかで、)祖国復帰のシンボルとして沖縄の玄関たる那覇空港の米軍部隊を他基地へ移転(リロケーション)することが、日米の間でほぼまとまりつつあったが、そのための費用は、日米地位協定上、本土では、まだ正式には認められていなかった。すなわち、協定を厳格に適用する以上、日本側の義務は施設・区域の提供に限られ、基地の移転や改良については米軍負担が常識とされていたのである〉(『沖縄密約』岩波新書)
当時の佐藤内閣は“沖縄無償返還”を謳い、政治家としての集大成として協定締結に臨んでいた。しかしアメリカ側がこれに難色を示す。
〈かくして米側は、返還にともなう支出は一切拒否するという基本方針と合わせて、仮に、この基地の移転、さらには改良費などを肩代わりさせることができれば、将来にわたって、米側の財政負担は制度上、大幅に緩和されるという思惑から、交渉の最優先課題としてこの問題を突きつけてきたわけである。そして、これまた重要な点であるが、福田(赳夫・大蔵大臣)はこの米側要求を原則的に認めたのである。これが、後の“思いやり予算”の原型というべきもので、日本の対米軍支出に転機を画するものとなった〉(同前)
そして、裏交渉の結果、密約が結ばれた。西山氏は、沖縄返還に際して土地原状回復費の400万ドルの肩代わりを日本側が約束していた事実の暴露に関連して72年に逮捕されたが、その後、本来アメリカ側が負担することになっていた「基地施設改善費」の6500万ドル(当時の日本円にして234億円)についても、日本が負担することを両国が密かに合意していたことが、開示された米秘密文書から分かったのだ。