電凸攻撃を肯定しながら「マイノリティの表現を奪うべきでない」と結論だけ真逆にする詐術
社会に多様性をもたらすためにこそ、わたしたちの税金を使ってマイノリティの作品を助成する意味がある。想田氏の批判は芸術助成の本質と、三浦氏の無知を明らかにするものだったが、驚いたのは、三浦センセイの反応だった。三浦氏は想田氏の批判を引用したうえ、こう弁明したのだ。
〈でなくてはならないと受け取られたのなら誤解ですね。私は開催中止に追い込んだのはどのような圧力なのか、なぜ反感を持たれたのか、電凸を避けうる工夫は、という問いに答えただけで、電凸が起きても問題なく開催でき次年度以降も助成金配分に影響がでないのならばそもそも私の意見は必要ありません〉
散々、電凸を正当化して、公的助成を受けるためには「大衆に受け入れられ、学習意欲を満たす、十分に教育的で説明的なアート」であることが重視されるとか言っていたくせに、「誤解」「電凸を避けうる工夫は、という問いに答えただけ」って……。アンタが主張したのは「工夫」でなんでもなくて、「電凸を受けるような作品は展示するな」ということだろう。
もっとも、この論理破綻は想田氏の指摘に対する中身スカスカの「反論」だけじゃない。もとになった一連の感想ツイートでも、〈実際にあいちトリエンナーレが悩まされたのは一般大衆による苦情電話であり、名も知れぬ個人の総体が本企画展を問題視したというのが本件の本質です〉などと散々、電凸を正当化しておきながら、最終的にはこう結論づけていた。
〈大義名分を高らかに謳う実行委員会こそ本来は、もっともセンシティブなテーマに対する敬意を必要とするのではないでしょうか。そして、見る側が考えるべきことは、外交問題となっている慰安婦合意や徴用工などの件で、「プロパガンダ」に対する警戒心を持つのは当然にしても、〉
〈日本におけるマイノリティである朝鮮人の表現の機会を抑圧することには極めて慎重であるべきということです。米国で公的な助成から対立を煽ったり恨みを表現した黒人アートを排除したら問題になるように、国家を嫌う表現が趣味に合わなくても、少数民族の表現の機会は奪ってはいけません。以上です。〉
もう一度言うが、三浦氏はそれまで「大衆が怒るのは当然」と強弁して電凸や圧力を肯定していたのだ。それが、どの口で「マイノリティの表現を奪うべきでない」などと平然と言えるのか。ようするに、批判を避けるために、論理展開と結論をわざと乖離させることで予防線を張ったのだろう。なるほど、そりゃ「意味がわからんけどヤバイ」「中身がないのに違和感だけが残る」わけである。
ただ、ひとつ確かなことがある。論理破綻しているのになぜか自信満々に話しているから「意味不明だがそれっぽく聞こえてしまう」という三浦話法(?)は、別に今回に始まったものではなく、『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日)やメディアへの寄稿でも存分に発揮されてきた。その度に、本サイトでは三浦氏のお粗末すぎる知識、底の浅さ、結局は安倍政権を擁護しているだけということ……等々の事実を追及してきたつもりだが、いまだにこの「国際政治学者」にコロリと騙される人が後を絶たない。