ネトウヨのレッテルと論理展開をそのまま使って作品を批判する三浦センセイの不見識
では実際、三浦センセイの連続ツイートの何が「ヤバイ」のか。解読してみよう。
まず、三浦氏は〈実際に見た感想では、いくつかの配置や説明、そもそもの作品の取り合わせによる配慮不足が目立ちました〉と主張。次に、大浦作品や千葉の朝鮮学校の学生による作品などに言及する。そのうえで〈けれどもやはりこの部屋で目を引くのは二点〉と強調し、こう続けている。
〈いわゆる戦前回帰の危険を訴えた「日本人の墓」のアートと、そしてその向こうにすぐ見える少女像です。大浦作品によって、説明不足なままに天皇に対する愛憎のようなウェットな世界観を見せられた鑑賞者は、十分他の作品を消化することなしに、この「墓」アートと少女像に直面することになります。〉
〈感情のジェットコースターのように、情を掻き立てる表現と、「日本人の墓」のように鑑賞者に分断線を引く表現に晒されたうえで、鑑賞者は少女像に共感してみることを提案されるのです。ここでいう分断線を引く行為とは「目覚めた者」と「愚か者」、「知者」と「愚者」を分けようとする行為を指します〉
えーっと、いちおう突っ込んでおくが、三浦氏の言う「日本人の墓」なんて名前の作品は存在しない。三浦氏が指しているのは、中垣克久氏の立体作品のことだろうが、この作品はかまくら型をしており、外壁には「日本は今病の中にある」と書かれた紙や、安倍首相の靖国神社参拝や政権の右傾化を批判する内容の紙片、あるいは新聞記事などが貼られ、頂上には日章旗が、内部には星条旗が置かれている。
2014年の東京都美術館の展覧会で「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう」という紙片が館側から問題視され、その部分を撤去させられた。今回の中止問題でも、ネトウヨたちが「間抜けな日本人の墓」と呼んで“反日”レッテルを貼ったが、正式な名称は「時代の肖像−絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳−」である。
それを、ネトウヨと同じく「日本人の墓」なんて呼んでいる時点で「あ、三浦センセイ、ネットの聞きかじりだけでテキトーなこと言ってるだけなんじゃないの?」って気がしてくるが、それにしても〈「目覚めた者」と「愚か者」、「知者」と「愚者」を分けようとする行為〉って……。とりあえず引用を続けよう。
〈一見、この「墓」の芸術作品は倫理的なように見えます。しかし、この分断線が引かれていることで、まず「あちら側」にいる人間が参加しにくくなり、次にそのような態度をもつ作者の見解は必ずしも明白に真実とは言えないため、却って反感を呼び起こしがちです。〉
〈そもそも、何をもってして「目覚めた自分」と「目覚めていない大衆」を分けているのか。アートに使われた多数の新聞記事の報じた法改正や議論の中身を、この作者は果たして理解できているのか。様々な疑問が浮かびます。〉
なんてことはない。ごちゃごちゃと書いているが、簡単に言い換えると「反安倍政権っぽいから政権が好きな人は嫌がるよね」という、極めて低レベルな感想。つまるところ、“反政権的な要素”という作品の表層をすくって、「こちら側」(反政権)と「あちら側」(親政権)に分け、作者が「あちら側」を「愚か者」に分類していると決めつけることで、“反感が生じてもしょうがない”と主張しているわけである。しかも「新聞記事の中身を作者は理解できているのか」とマウンティングのおまけ付き。三浦センセイが得意とする論法だ。
いい機会なのでタネを明かしてしまうが、実はコレ、右派論壇による“朝日新聞バッシング”とか“リベラル叩き”とまったく同じやり口である。“反権力”的な言説ないしメッセージに対して「なんで上から目線なんだ。バカにするな」と食ってかかることで、権力構造を組み替え、本来ならルサンチマンが支配層へ向かうところを無理やり「進歩派」「リベラル」へすげ替えるという手法。だいたい、以前の展示会で「時代の肖像」の政権批判の文言を消さざるをえなかったという文脈に、三浦氏はどうして触れようとしないのか。その時点で作品の感想として二流もいいところだろう。