ヒトラーのベルリン五輪に参加した日本選手が受けた凄まじいプレッシャー
そんななか、競技大会がなくなって目標を失った水泳選手たちのため、松澤事務局長は政府の方針に抗い「記録会」をおこなった。この記録会にはベルリンオリンピックの背泳ぎで6位入賞の成績を残し、東京オリンピックでの活躍を期待されていた児島泰彦選手も出場。ベルリンオリンピックでの成績(1分10秒4)を大きく更新する1分9秒2秒のタイムを出した。
しかし、児島選手にとってそれは最期の泳ぎでもあった。児島選手は沖縄に送られて戦死。遺骨すら見つかっていないという。
東京・北区にある記録会がおこなわれたプールの跡地を訪れた北島選手はこのように語る。アスリートとして練習に没頭でき、試合でその成果を発揮できる環境にあったことは幸福だったということに気づいたと述べたのだ。
「東京にオリンピックがまた戻ってくる。そのなかで少しでも前のオリンピックの歴史を知ることができたということが、僕のなかではすごく大きくて。結果を残せた選手は喜びだったりとか、感情は人それぞれだけど、自分の力をパフォーマンスできる場所があるということがすごく幸せなんだと改めて思います」
戦争によって競技の場も命も奪われたアスリートたち。長谷部と北島は「スポーツが戦争に飲み込まれていく悲劇」に触れて、平和への思いを新たにしていた。これらのエピソードからも戦争がいかに残虐で罪深いものか伝わったが、ただ、こうした悲劇をあくまでも「過去」の話として捉えられていた。
そんななか出色だったのは、北京オリンピックの400メートルリレー銀メダリストである朝原宣治選手だ。朝原選手は、スポーツと政治が結びつくことで生まれる悲劇を単なる過去の話でなく、「スポーツと戦争の近さ」について、現在に通じる問題としてその危機感を語った。それは、2020年東京オリンピックにもつながってくる問題である。
朝原選手が登場したパートでは、陸上の鈴木聞多選手について取り上げた。鈴木選手はベルリンオリンピックの400メートルリレーに出場した人物。「暁の超特急」と呼ばれた吉岡隆徳選手のバトンを引き継ぐ第二走者としてオリンピックの舞台に立った。
そもそもナチス政権下でおこなわれた1936年のベルリンオリンピックは、ヒトラーが国威発揚とプロパガンダに利用した近代五輪史上最大の汚点だが、日本にとっても国威発揚の場となった。「日本民族の力を世界に示す」ことを国民から求められ、すさまじいプレッシャーのなかで臨んだ試合では、理想的なタイミングより若干早くスタートしてしまい、吉岡選手と鈴木選手の間でバトンミスが発生。バトンの受け渡しが許されるエリアを越えたことで失格となってしまった。