ナショナリズムを煽り、オリンピックへの批判や異論を許さないメディアの罪
とくに、メディアがそのグロテスクな構図をつくりだしている。オリンピックの時期になると、地上波テレビを中心に、競技の内容はそっちのけで日本選手の活躍ばかりが報じられるのはご存知の通り。
アナウンサーやコメンテーターによる「日本勝った!」「日本頑張れ!」といった叫び声が響き渡る傾向は、日本社会の右傾化・ガラパゴス化・内向き志向の強まる近年どんどんひどくなっているが、もちろんそれは選手たちに試合への集中を阻害するような強いプレッシャーを与えることにもつながっている。
こうした傾向に苦言を呈する声も多い。たとえば、ジャーナリストの青木理氏は、リオデジャネイロオリンピックにおけるメディアの報道を問題視し、〈スポーツをめぐって奏でられるナショナリズムは、しばしば「健全なナショナリズム」などと形容される。ナショナリズムに「健全」なるものがあるかどうか私は怪しむが、スポーツのナショナリズムだってしばしば醜悪なものへと容易に転ずる〉(「サンデー毎日」2016年9月4日号/毎日新聞出版)と書き記している。
こうした苦言は、オリンピックの大会運営に関わった経験のある人からも出されている。
1964年の東京オリンピックで大会組織委員会のメンバーに入っていた吹浦忠正氏は、「調査情報」(TBSメディア総合研究所)2014年11月12日号に寄稿したエッセイ「巨大化したオリンピック──商業主義とナショナリズムの抱擁」のなかでこのように書き記し、2020年東京オリンピックが「スポーツを人類の調和のとれた発達に役立てること」「人類の尊厳保持」「平和な社会の実現」といったオリンピズムの目標に即した大会となることへの希望を述べている。
〈ベルリン大会(1936年)で典型的に行われた「スポーツへの政治介入」や「スポーツを利用した政治」は気を付けないと繰り返されかねない。大会誘致に「政府保証」だの「IOCの総会に最高首脳が出席する」などといった事態はスポーツ界が政治を導入してしまったというほかない〉
〈商業主義とナショナリズムの奇妙な抱擁がいまのオリンピックを支えていると思う。この商業主義とナショナリズムをより健全な形に抑えてこそ、オリンピックが継続できる人類共通の遺産となろう〉
前述したNHKスペシャル『戦争と“幻のオリンピック” アスリート 知られざる闘い』の最後には、長谷部選手が「戦争や紛争、いろんなものから逃れて、サッカーができなくなるとか、そういうものは現代でも目の当たりにしていますし、悲しむことは誰でもできると思うんですけど、そこから学んで次につなげる、そして、それを忘れないことですね」と語っている。戦時中に起きたことは、現在・未来の問題でもあるのだ。
この国はかつて、スポーツをナショナリズムを煽る道具として使い、参加したアスリートに無用なプレッシャーを与えた。のみならず、彼らの能力や名声を戦争遂行のために使った過去さえある。
東京オリンピックを翌年に控え、スポーツがナショナリズムの道具として使われる危惧が高まる一方、オリンピックに対する批判や異論が封殺されている現在、このような番組が放送されたことには価値がある。
私たちはこの国がもつ醜い過去を直視し、オリンピックが愛国心を煽る道具となる昨今の状況に抗わなければならない。
(編集部)
最終更新:2019.08.21 11:54