名古屋をディストピア化させた過剰なモータリゼーションと“トヨタ”
つまり、自動車交通至上主義の都市計画こそが、街の魅力を奪った最大の要因である、と矢部氏は分析するのだ。
「幹線道路をむやみに拡幅したり、都市高速をどんどん建設したり。郊外から市の中心地まで自動車でシームレスに移動できる街を作る。市街地を自動車で縦横に移動できるようにする。名古屋の都市計画者たちの自動車交通に対する無邪気な夢が、街を切り刻み、人と街との親密な関係を破壊してしまいました。そして、名古屋では狭い道路でも自動車が速度を落とさずに進入してきます。街が自動車のスケールで設計されているから、歩くのが困難で楽しくない。商店も少ないので日常の買い物にも苦労します。結論としては、都市計画者たちのユートピアとして作られた名古屋の街は、訪れる人にとってはディストピアとでも言うしかない街になってしまったのです」
しかも、この都市計画と過剰なモータリゼーションは訪問者だけでなく、住民からも“街への愛着”を奪ってしまったという。
「自動車に乗って移動する生活、歩かない生活。これは街への愛着を失わせ、無関心を常態化させてしまいます。名古屋市民は戦後の道路計画の時代からずっと街から排除されていたと言えます。散歩をしたり、街角にたたずんだり、公園にたむろするという習慣が、ずっと以前に失われていました。都市空間が暴走する自動車と騒音と排気ガスに占拠されたからです。だから名古屋市民は、お昼を食べるにしても、公園のベンチで弁当を広げるよりも自動車の運転席で弁当を食べるほうを好むのです」
「自動車社会がもたらす問題点としてあげないとならないのは、人間の意識が衰弱してしまうということです。たとえば歩くということを考えてみましょう。歩くということには、たとえば道端に咲いている草花を見つめたり手に取ったりする、ということもふくまれています。けれど、そんなことは自動車の運転者にはできません。草花だろうがなんだろうが一瞬で通過するだけです。道路上に動物の遺体が転がっていても、一瞬気にとめるだけですぐに通り過ぎてしまう。そしてすぐに忘れるのです。私たちは知覚を単純化させ、感情を麻痺させなければ、自動車を運転することはできないのです。この感情の麻痺がもたらす衰弱が、名古屋という街への関心を失わせている大きな要因だと思います」