本当の憲兵や特高はもっとヒドい! 虐殺された小林多喜二が描いた拷問
結果的には、知り合いの元陸軍中将の助けにより解放されたわけだが、それがなければ命を落としていてもおかしくない。それに、留置場での生活が災いし、その後、二度にわたって開腹手術を受けなければならなかったという。
ただ、生きて出ることができただけ、安藤百福はマシだったともいえるかもしれない。というのも、当時、憲兵や特高警察の拷問によって命を奪われた人は少なくないからだ。
そのなかでも有名なのが、『蟹工船』で知られる作家の小林多喜二だろう。彼は治安維持法により逮捕された人間に対し特高警察が加えた暴行を告発した『一九二八年三月十五日』を「戦旗」に発表したことがきっかけで小説家として本格的に世に知られるようになった。しかし、結果的には、この作品の描写が特高の怒りを買ったことで後に逮捕され、1933年2月20日、取り調べ中の拷問により29歳の若さでこの世を去ることになる。彼の遺体の写真は公開されているが、身体中(特に太もも)が痣で真っ黒に変色しており、どれだけひどい拷問が行われていたかを窺い知ることができる。
小林多喜二のデビュー作『一九二八年三月十五日』は、1928年3月15日に日本共産党関係者など1000人以上が治安維持法で一斉に検挙された「三・一五事件」について描かれた小説。このなかでは、何の容疑なのかもまともに教えられぬまま強引に逮捕されていく過程や、逮捕した人々に対して苛烈な暴力が加えられていく様子を生々しい筆致で描いている。
その描写の数々はまるで拷問の見本市のようである。
拷問は単純に殴る蹴るの暴行だけではない。こんな危険な手段まで用いられる。
〈そのすぐ後で取調べられた鈴本の場合なども、同じ手だった。彼は或る意味でいえば、もっと危い拷問をうけた。彼はなぐられも、蹴られもしなかったが、ただ八回も(八回も!)続け様に窒息させられた事だった。初めから終りまで警察医が(!)彼の手首を握って、脈搏をしらべていた。首を締められて気絶する。すぐ息をふき返えさせ、一分も時間を置かずにまた窒息させ、息をふきかえさせ、また……。それを八回続けた。八回目には鈴本はすっかり酔払い切った人のように、フラ、フラになっていた。彼は自分の頭があるのか、無いのかしびれ切って分らなかった〉
警察医がついているとはいえ、こんな危険な拷問を加えるというのは、最悪、取り調べ中に相手が死亡したとしても、適当に隠ぺいすればそれで話は終わるというぐらいに認識していたということの裏返しでもあるのだろう。また、『一九二八年三月十五日』には、さらに、こんな拷問器具が用いられる描写まで登場する。
〈取調室の天井を渡っている梁に滑車がついていて、それの両方にロープが下がっていた。竜吉はその一端に両足を結びつけられると、逆さに吊し上げられた。それから「どうつき」のように床に頭をどしんどしんと打ちつけた。そのたびに堰口を破った滝のように、血が頭一杯にあふれるほど下がった。彼の頭、顔は文字通り火の玉になった。眼は真赤にふくれ上がって、飛び出した。
「助けてくれ!」彼が叫んだ。
それが終ると、熱湯に手をつッこませた〉