羽生結弦の活躍を讃えながら、国民栄誉賞を「いらないオマケ」と批判
そうした安倍政権によるスポーツの政治利用を踏まえても、村田選手が国民栄誉賞を「企業や政治的に広告としての価値があるかどうかで判断しているよう」と批判しているのは、まさにその通りとしか言いようがない。
実は、こうした羽生選手への国民栄誉賞が決まる前から、村田選手はこうした姿勢に異を唱えていた。
「東京新聞」のコラム(2月26日)で。村田選手はそのなかで、平昌五輪出場選手たちを労い、羽生選手に対しては〈羽生選手のためにあったのではないかというような幕切れでした〉、女子ジャンプの高梨沙羅選手に対しては〈勝つべくして勝った本物のチャンピオンだと思います〉と絶賛していた。
一方で、このころにはすでに政府が両選手への国民栄誉賞授与を検討しているとの話が流されていたが、村田選手はコラムの最後にこの件に触れ、このように締めくくっていた。
〈五輪の価値とは競技レベル(競技人口、普及率等)ではなく、企業や政治的に広告として価値があるかどうかなのかと考えさせられる、いらないオマケのついた平昌五輪でした。〉
国民栄誉賞を「いらないオマケ」と斬った発言は当時「週刊新潮」も取り上げ、村田選手にコメントを求めていたが、そのときは「羽生結弦選手に国民栄誉賞が贈られることが決まったわけだから、それに水を差したくない」と、一旦は自重の姿勢を示していた。
しかし、防衛戦を前に応じた「週刊新潮」のインタビューであらためて、この国民栄誉賞問題について口を開いたというわけだ。しかも今回、村田選手はさらに踏み込んで、アスリートの立場から“国民栄誉賞は差別”とまで断じている。
「厳しい練習を重ねたすえにようやく掴んだ問いへの答えが、同じスポーツ選手なのに差別されることには疑問を感じないわけにはいきませんでした」
たしかに、国民栄誉賞の授与が、単純にそのキャリアや業績だけで判断していないことは明々白々で、アスリートたちにとっては、身も蓋もなく言えば「お前はスターだからあげる」「お前は地味だからダメ」と為政者から告げられているに等しい。アスリートがほんのちょっと政権批判をしようものなら、すぐさまネット右翼に炎上させられる昨今。リングの中での村田選手はどっしりと構えるインファイター寄りのスタイルだが、マスコミ対応も正々堂々という感じではないか。