柳美里「仮設住宅のテレビで観る人が一人でもいたらオリンピックは失敗」
震災が起きた後、メディアは被災地にいっせいに押し寄せ、土足で人の家の敷居をまたいでいったが、しかし、書く材料を拾うだけ拾ったら、これまたいっせいにその地から消えていった。作家として、しかも、福島に浅からぬ縁をもつ身として、そういったメディアとは違ったかたちで被災地の人々と寄り添うことはできないか。彼女はそう考えたのではないだろうか。実際、「創」(創出版)13年6月号ではこのように書いている。
〈わたしはこの2年間、どうしたら、「他者の痛み」に責任を持つことができるか、と考え続けてきました。
責任は、他者との関係において生まれます。関わることができるその範囲の内にしか、責任は及びません。
取材する、取材される、という一方向関係ではなく、関わり合い、知り合い、信頼し合い、それを深める努力を続ける──、その時間を通してわたしは、壊され、奪われ、失われる前に、その地で営まれていた、ひとりひとりの「暮らし」を想像したかったのです。想像したい、というよりは、心情的にはむしろ、想い出したいという感情に近いような気がします〉
彼女が南相馬でやっていることはラジオ番組以外にもある。県立小高工業高校での講義依頼を引き受けて表現と文章表現の授業を受け持ったり、また、長渕剛が作曲した小高産業技術高校(小高工業高校と小高商業高校の統合校)の校歌の作詞をしたりもしている。
昨日、平昌冬季パラリンピックが開幕したが、東京オリンピック・パラリンピックについて、柳美里氏は以前こんなコメントをしていた。
〈6年後、東京オリンピックの開会式を、仮設住宅のテレビで観る人が一人でもいたら、東京オリンピックは失敗だと、わたしは思います〉(「創」14年6月号)
まさしく、そうだろう。しかし、安倍政権が被災地に対していまのような態度で接し続ける限り、彼女の言う「失敗」は確実だ。
私たちは、改めてこの現状を見つめ直さなくてはならない。
(編集部)
最終更新:2018.03.10 07:57