東海村の臨界事故を受けて、恩田陸は『錆びた太陽』を書く
主人公たちは、この計画を阻止し、政府が秘密裏に進めるこの計画を暴露しようとするのだが、そのクライマックスに向けた盛り上がりのなかでこんなセリフが出てくる。
〈「今に始まったことではないが、どうも日本の政府や政治家には、今あるものでやりくりしようという頭がないようだ。子供が独立して家を出ていったら、小さい家に住み替えるとか、家計の規模を縮小しようと考えるのが普通だが、とにかく彼らは長いスパンで人生計画を考える気がさらさらない。使う人間もいないのに家を増築しようとする。彼らは上昇とか成長とかいう呪縛から逃れられない。とにかく、今目の前にカネが欲しい。今すぐ新しい家が欲しい。それだけだ。なんのためにカネが必要なのか、なんのための家なのか、決して考えない」〉
福島での事故が収束のメドすらたっていないなか、次々と原発を再稼働させようとし、さらには海外への原発技術の輸出まで企てる現実の世界の安倍政権にもあてはまる言葉だ。また、前述のセリフの後には、こんな言葉も出てくる。
〈「さっきも話したように、彼らには人生計画がない。とにかく、今目の前にカネが欲しいのだ。今生きている者が大事なのだ。自分が使うためにも、選挙区にばらまくためにも。ここ百年ばかり、科学者や技術者、住民たちが、自分たちが生きているうちにはできなくとも、それでもいつか再び故郷を取り戻したいと、地を這うような努力をしていることなど、彼らには目に入らない」〉
復興のために日夜働いている人たちや、被害に遭った住民のことなど一顧だにせず、あろうことか「(地震が起きたのが)東北でよかった」なる発言まで口にした今村雅弘前復興相を筆頭に、この「いつか再び故郷を取り戻したいと、地を這うような努力をしていることなど、彼らには目に入らない」というセリフもまた、現実の世界の政権与党にもそのまま当てはまるセリフだろう。
小説内のセリフでありながら、これらの言葉には原発政策に対する恩田陸の憤怒の思いが見える。実は、その怒りにはバックボーンがあった。『錆びた太陽』は3.11後の状況を見て生まれた小説であり、東海村の臨界事故を受けての物語でもある。「AERA」(朝日新聞出版)17年3月27日号に掲載された取材記事にはこのように記されていた。
〈この小説を書く上で、原体験となった出来事がある。1999年9月30日、テレビ画面に突如、ニュース速報が入った。600人以上が被曝した、茨城県東海村の臨界事故の一報だ。高校時代を茨城で過ごし、事故があった核燃料加工施設は高校時代の同級生の親も多く勤める身近な存在だった。原子力マネーで潤う豊かな村が、一夜にして悲劇の舞台となる。強烈な違和感が忘れられない〉