松本人志「なぜいまは体罰ダメで昔はよかったのか」発言の無知蒙昧
「なぜいまの時代に(体罰が)ありえないのかっていう、明確な理由を誰も言ってくれないんですよ。なぜいまはダメで、昔はあの、よかったんですか? 明確な理由がわからないんですよ」
「体罰を受けて育った僕らは、別にいま、なんか変な大人になってないじゃないですか。屈折していたり。何なら普通の若者よりも常識があるわけじゃないですか。にもかかわらず、なんか体罰受けて育った僕たちは、失敗作みたいなこと言われているような気がして、どうも納得がいかないんですよね」
体罰とは、恐怖を与えることで相手に言うことをきかせるという立派な暴力である。それを教育と称して教師という大人から子どもにおこなう行為は非人道的なもので、日本の教育現場では「学校教育法」で禁止されている。だが、日本においては、松本のように「体罰なんか日常茶飯事だった」と語る者は多い。じつは、これが体罰がなくならない最大の原因なのだ。
教育評論家の尾木直樹は、著書『尾木ママ、どうして勉強しなきゃいけないの?』(主婦と生活社)において、“明治期の感化法で暴力が肯定された以外は教育界で体罰は認められたことはない”とした上で、こう指摘している。
〈それ(感化法)以外に教育界で体罰は認められたことがないにもかかわらず、「昔は先生にバンバンやられたよ」なんて、振り返る人が多いのも事実です。
それは軍事教練で、戦中に学校教育の中に軍人さんが入ってきたことが大きく影響しているんですよね。軍隊のやり方でビシビシと子どもたちを殴り始めて、それが教育だと勘違いして、軍人ではない教師たちも殴って言うことをきかせるようになってしまったんですよ〉
つまり、松本の世代を含め、この国の教育現場では戦中の軍事教育が延々と引き継がれてきてしまった、というわけだ。「自分たちの世代では体罰は当たり前だった」としても、けっして「体罰は当たり前」にしてはいけないものなのだ。
しかも、松本は「自分たちは体罰を受けてもまともに育ったのに」と語るが、このとき彼は、体罰によって死亡した重大な事件をはなから無視している。
これはとくにスポーツ界の根深い問題だが、暴力を伴う指導を受けて成功をおさめたアスリートは、そのやり方を肯定する者も多い。だが、その一方で、死にいたったり、重篤な怪我をさせられたり、心に傷を負った人はたくさんいる。スポーツ界でなくとも、松本は「自分たちは体罰を受けたが屈折したりしてない」と胸を張るが、松本はすべての体罰を受けた人のその後など知るわけがない。松本の論は結局、生き残った者の体験談、すなわち生存バイアスがかかったものでしかないのだ。
自分以外の人はどうだったのかという想像力ももたないで、よく自分のことを「何なら普通の若者よりも常識がある」などと自画自賛できるものだと呆れるが、だからこの国ではいまだ体罰が美化され、今回もこうした反応が起こるのだろう。