海自の自衛艦旗は海軍の軍艦旗の亡霊
一方、海軍の「軍艦旗」がどう扱われたかも見ておきたい。日本では、幕府時代から日章旗が軍艦旗としても使われたが、1889(明治22)年の海軍旗章条例によって16光線条の旭日旗が正式な軍艦旗として定められた。陸軍の軍旗と比べて全体的に横長であり、日の丸の位置はやや左(竿側)にずれる。後述するが、これは現在、海上自衛隊の自衛艦旗にそのまま継承されている(なお、陸自は8光線条である)。
『日本陸海軍総合事典』によれば、軍艦旗は海軍の艦船たることを示す旗章で、日本国主権の存在を表示したという。内地においては、午前8時から日没までの多くの場合、艦尾の旗竿に掲げ、航海中は昼夜通じて掲げられた。
1902(明治35)年に海軍少佐・奥田貞吉の名前で著された「帝國國旗及軍艦旗」には、〈軍艦旗ハ海軍ニ於ケル主權ノ表章ニシテ戦時平時ヲ問ハス軍艦及海軍所用の船艇ニ掲揚セラルヽモノトス〉とあり、その意匠には〈我帝國ノ武勇ヲ世界ニ輝カセ〉とか〈帝國ノ國權ヲ地球ノ上ニ發揚セヨ〉という意味があるとしている。つまり、たんに所属を表す目的ばかりでなく、国威発揚および帝国主義の正当化を図る示威行為の意図があったと考えられる。
前述の通り、海軍の軍艦旗もまた陸軍同様、敗戦を機に一度は消滅する。それがなぜ、自衛隊旗として復活したのか。結論から言うと、ネトウヨや菅官房長官(これを並列すること自体情けない)は「旭日旗は自衛艦旗にも使われている」ことを理由に“問題なし”とするが、それは戯言でしかない。
実際、防衛省・自衛隊ホームページでも、〈自衛艦旗は戦前の日本海軍の軍艦旗そのままのデザインですが、その制定にあたって海上自衛隊の艦旗はすんなりと旧軍艦旗と決まったわけではありませんでした〉と解説されている。1954(昭和29)年の自衛隊設置を前に、その前年から旗章が全面的に見直されることになったのだが、〈多くの部隊が希望している旧軍艦旗を採用することについても、情勢はこれを許す状況にはないのではないかとの議論〉があったというから、やはり、この旭日旗が軍国主義を示すものであるとの認識は当時の関係者にもあったわけである。
ところが、〈各部隊・機関の意見を集めたその結果、各部隊等の大部分は旧軍艦旗を希望している意見が多いことが判明〉して、結局、旧日本軍の軍艦旗がそのまま制定されたという。実際、別の証言を探したところ、元海軍軍人の大賀良平・第12代海上幕僚長(故人)が、「海自50周年」の記念特集をくんだ「世界週報」(時事通信社)2002年8月20・27日合併号に、「旭日旗、再び」なる文を寄稿しているのが見つかった。
それによれば、1951年、吉田茂はサンフランシスコ講和条約締結と前後し、米国から艦艇の貸与を打診され、これを受け入れた。その際、貸与艦をどう運用すべきかを検討する秘密委員会が設けられた。山本善雄元海軍少佐が主席となり、旧海軍側から8名が参加したという。この答申によって、翌52年に海上警備隊が創設されたのだが、大賀元海幕長は当時をこう述懐している。〈この時、関係者が感激し狂喜したのは、かつての軍艦旗“旭日旗”が再び自衛艦旗として使えるように決まったことだ〉と。
大賀元海幕長の言う「感激し狂喜した関係者」とは、帝国海軍出身者をさすのだろう。自衛艦旗の「旭日旗」の復活は、大日本帝国海軍の強烈な“自尊心の残滓”が、そのメンタリティを継承しようとした結果だということは明らかだ。菅やネトウヨ連中が言うように、たんに伝統的な「旭日」のデザインだけを拝借したわけでは決してないのである。