当然だろう。だいたい、少女像の設置は韓国の市民による意思表現であり、それを国側が強権的に封じ込めること自体、近代民主主義国家の大原則である「表現の自由」の侵害だ。その意味では、今回のケースではむしろ安倍政権よりも韓国のほうが表現の自由への理解が進んでいるとすら言える。報道によれば、少女像は12月28日に市民団体が設置したあと、同日中に道路の管理権を持つ釜山市東区が一度は強制撤去した。これ自体は褒められたものではないが、それでもその後、区は市民からの抗議が殺到したことを受けて30日に設置を許可したという。つまり“国民の声”が行政を動かしたのだ。
一方、安倍政権のこの間の振る舞いといえば、駐韓大使の引き揚げまでして露骨な恫喝に出ると同時に、安倍首相が「日本は10億円を拠出した。韓国が誠意を示すべき」などと“韓国政府は国民の表現の自由を圧殺せよ”とプレッシャーをかけ、側近議員は「まるで『振り込め詐欺』だ」などと新聞記者に漏らして日本国内の嫌韓感情を煽り立てている。繰り返すが、市民の表現の自由を侵害しないことは、近代国家として当然に求められる態度だ。こんな隣国市民の当然の権利を潰せといきりたつ国などそれこそ“ならず者国家”だろう。民主主義の普遍的価値を踏みにじる暴挙だが、実際、沖縄の高江ヘリパッド建設で反対派を弾圧し続ける安倍政権のやり方を韓国にも押し付けているとしか言いようがない。
さらに加えれば、市民による少女像の設置それ自体、決して日本政府や右派が批判する筋合いはない。政府やマスコミは、少女像をさも“反日の象徴”“日本への嫌がらせ”かのように扱っているが、少女像の持つ意味はそんなレベルの低い話ではないからだ。
そもそも、少女像の正式な名称は「平和の碑」といい、彫刻家によるれっきとした美術作品、言い換えれば表現の自由が保障される表現芸術だ。たとえば、有名なソウル市日本大使館前の少女像は、2011年12月11日、日本軍の慰安婦被害者たちの人権と名誉を回復するために1992年から始まった「水曜デモ」が1000回に達したことを記念し、市民団体の呼びかけによる募金で建てられたもの。碑文には「その崇高な精神と歴史を引き継ぐため」と刻まれている。少女像の取材を続けるフリー編集者の岡本有佳氏によるインタビューのなかで、少女像を制作した彫刻家夫妻、キム・ソギョン氏とキム・ウンソン氏は、この作品についてこう語っている(「週刊金曜日」16年9月16日号)。
「(平和の)碑には水曜デモの歴史、ハルモニ(おばあさん)たちの苦難の歴史、世界の平和と女性の人権のために闘うハルモニたちの意思まで込めようと思いました。最初は碑石に文字を刻むイメージでしたが、人々と意思疎通することができ、ハルモニたちを癒すことができるような像を提案。二度とこのようなことが起こらないよう誓う少女と私たちが一緒に表現できればと思い、制作しました。(中略)人生の険しさを示す裸足の足は傷つき、踵が少し浮いています。これは置き去りにされた人、故郷に戻っても韓国社会の偏見や差別によって定着できなかった人たちの不安、生きづらい状況をも表現しました」(ソギョン氏)