「アメリカは幼少期から発達障害の的確な診断をします。保護者が自分で病院を探して、診察を受けないと診断してもらえない日本と違って、アメリカでは幼稚園で支援委員会が立ち上がり、半ば強制的に専門家による診断が実施され、小学校の就学先を検討したり、支援プログラムが組まれるなどして親子を支援します。社会的に支援するシステムが確立しているのです」
栗原自身、本書の冒頭で、「発達障害は、脳のクセです。人によって障害内容は異なりますが、早期に気が付き、環境を整え、正しく対処をすれば、ある程度の訓練で変わることができます。できないことができるようになるということは難しくても、生きづらさは解消できます」と綴っているが、彼が自分なりの生き方、居場所を見つけることができるようになったのは、ニューヨークの小学校に通っており、早期の診断と適切なサポートを受けられたことが大きかったということだろう。
しかし、小学校5年で日本に帰国してからは、まったく逆の環境が栗原を待ち構えていた。
「小学5年から中学卒業の5年間、僕はずっと理由もなく、ただ連中に言葉の暴力をあてられるサンドバッグの役割を受けてきました」
外見やファッションなどで目立っていたこと、英語をしゃべることなど、栗原はイジメを受けた理由をいくつか推測しているが、その理由のひとつは「ずっとひとり言を英語で言っていたこと」だったという。
「人と違うことは、日本では「目立つ」ことで、何かにつけて標的にされやすいのは事実だと思います。」
「しかし、独り言は違法ではないですし、ただ無視していればいいのにと僕は思っていました。横でブツブツ言われるのが気持ち悪い、不快だと感じる人がいると指摘されても、そういう発想があるんだと頭では理解できても、独り言をいう自由もないのかと逆に僕自身の権利を侵害されている気分にもなります。社会性を正しく身に付けるのは、非常に難しいと今でも感じます。」
さらに、そうしたイジメや嫌がらせに対する教師の対処法もアメリカと日本では大きくちがった。
「もうひとつ、決定的な要素もありました。友達に言われたことを、先生に報告する事です。/これに関してはおそらく読んでいる人の中にも「チクリ魔」「自分が悪い」「自分の問題は自分でなんとかしろ」と思われる方もいるかもしれません。/しかし、アメリカの学校では、生徒同士でケンカなどの問題があったら、自分たちで解決するのではなく先生達が監修するのが普通でした。彼らはどんなに忙しくても、人手が少なくても何があっても、ちゃんとその問題をみなければいけないという「義務」があり、生徒達も先生に報告する方針でした。だからいつも問題を見てくれる先生達の「熱意」を感じていました。/日本の学校では、僕がほかの子から暴言を浴びるたびに先生に助けを求めても、「わかった」というだけで、何もしてくれませんでした。そして、その子からは「チクるんじゃねーよ」と言われる繰り返しでした。そんな日々が3、4年続き、地獄のような日々を送っていました。」
ハード面でのサポートも、日本の学校はまだまだ追いついていない。たとえば、栗原は「二つの動作を同時にすることが難しい」ため、字を書くことと思考することを同時にしなければならない、手書きの作文などが苦手だという。