このやり口を見ても、自民党きっての極右政治家が今回、参拝中止を決定したのは、その思想に変化があったわけではなく、明らかにその場しのぎ、二枚舌にすぎないことがよくわかる。
実際、稲田氏の“靖国史観”の危険性はそもそも、参拝するかどう以前の問題だ。稲田氏はかつて靖国神社のために、日本国憲法に規定されている近代民主主義国家の根本である政教分離原則さえ否定していた。
「そもそも『政教分離』という制度自体は、普遍的で絶対的なものではありません。(略)むしろ日本人の暮らしは宗教的なものなしには考えることが出来ないのであって、それを混同して『政教分離』を論ずるのはおかしいのではないかと思います」
「この(政教分離を規定する憲法の)第二十条にかんしては第三項の『国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。』という規定を削除もしくは改正することで、首相が靖国神社に参拝できない不自然な環境を改善していくべきだと思います」(渡部昇一監修『中国が攻めてくる! 日本は憲法で滅ぶ』総和社)
しかも、恐ろしいのは、稲田氏が靖国にこだわる理由が過去の戦没者の慰霊のためでないことだ。たとえば、彼女はかつて靖国神社の存在意義をこう説明していた。
「九条改正が実現すれば、自衛戦争で亡くなる方が出てくる可能性があります。そうなったときに、国のために命を捧げた人を、国家として敬意と感謝を持って慰霊しなければ、いったい誰が命をかけてまで国を守るのかということですね」
「靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです」(赤池誠章衆院議員らとの座談会、「WiLL」06年9月号/ワック)
「首相が靖国に参拝することの意味は『不戦の誓い』だけで終わってはなりません。『他国の侵略には屈しない』『祖国が危機に直面すれば、国難に殉じた人々の後に続く』という意思の表明であり、日本が本当の意味での『国家』であることの表明でなければならないのです」(渡部昇一、八木秀次との共著『日本を弑する人々』PHP研究所)
つまり、稲田氏にとって、靖国は先の大戦の慰霊の施設ではなく、国民をこれから戦地へ送り込み、国に命をかけさせるためのイデオロギー装置なのだ。むしろ、稲田氏の真の目的は、新たに靖国に祀られることになる“未来の戦死者”をつくりだすことにあるといっていいだろう。