『野火』公式サイトより
終戦記念日が近づいてくると、毎年のように太平洋戦争を題材にしたドラマや映画がつくられる。1年に1度でも、戦争について考えることの意味は大きい。
しかし、近年、戦争を題材にしたドラマや映画の潮流は様変わりしている。良いほうにではない。悪いほうに、だ。『あんにょんキムチ』や『童貞。をプロデュース』などのドキュメンタリー映画で数多くの映画賞を受賞している松江哲明監督は、今年1月に出版された芸術批評誌「REAR no.36」(リア制作室)でこのように指摘している。
「最近出てきた体験者じゃない人がつくる、あまりにも現代的な視点が強すぎる戦争映画にすごく違和感を持っていたんですよね。『永遠の0』(2013年、山崎貴監督)とか。SFレベルの、ものすごく都合のいい解釈の映画だなって。孫が調べていって、価値観が変わっていくというのを一つのドラマにしているんですけど、分かんないことを排除しようとするんですよね」
「『永遠の0』を見て、分かりやすくしているが故にすごくなにかを隠している都合のいい映画で、SF的、架空戦記ものみたいだなって」
『永遠の0』のような「架空戦記」は、戦争に向かう兵をとにかくヒーローのように描き、その死はドラマチックに描かれる。それは戦争の悲惨さを描いているようでいて、実はその真逆。観客はむしろ、国のため、家族のために死に行く若者を英雄として、憧れの対象として捉えてしまう。
だが、実際の戦争における死は、そんなにドラマのあるものではない。砲弾などにより人間は一瞬のうちにただの「肉塊」になってしまうし、深刻な食料不足から「食人」も行う。むごたらしいものだ。
現に、過去の映画はそのような戦争の実相をきちんと描いていた。たとえば、陸軍に召集され戦友たちが死んでいく姿を目にしている岡本喜八監督は、1971年公開の映画『激動の昭和史 沖縄決戦』で、140分近くの上映時間のうち半分以上を物語上の余韻も何もなく、ただただ兵士や沖縄市民が死んでいく姿を描写することに費やした。セリフらしいセリフを与えられる者もほとんどおらず、死に方はそれぞれだが、人々はただ死んでいくだけで、そこにヒロイズムのようなものはかけらもない。
本当の戦争とはこのようなものなのだろう。当たり前のことだが、事切れる寸前に愛する者へ向けた長ゼリフなど喋る余裕はないだろうし、激しい戦場のなかにあってキレイな身体で死ぬことのできる兵士もいない。